永享の乱で幕府に反旗を翻した父の持氏が自害すると、信濃に逃れていた。
持氏の死後、鎌倉公方不在の関東は政治的に不安定であり、秩序の核となる鎌倉公方の復活は切望されていた。そこで文安4(1447)年に迎えられて鎌倉に入り、5代目鎌倉公方となった。
しかし鎌倉公方が不在の間、関東では関東管領上杉氏を中心とする新たな政治体制が形成されつつあった。成氏が鎌倉入りした後もその歪みは大きくなっていき、上杉憲忠を核とする上杉派と、成氏のもとに結集した公方派の対立は深まっていく。宝徳2(1450)年に成氏は鎌倉を逃れて江の島に入り、まもなく反撃して鎌倉に戻った。そして享徳3(1454)年の暮れ、ついに憲忠を鎌倉の屋形に招いて殺害してしまう。
翌康正1(1455)年には鎌倉を出発して武蔵で上杉方と戦い、以後上杉方と全面的な戦闘に突入。結局そのまま下総の古河(茨城県古河市)に入り、その後は鎌倉に帰ることなく古河に居を定め、「古河公方」と呼ばれるようになる。成氏は古河周辺の大名を味方につけて上杉方と戦いを続けた。
京都の室町幕府は上杉方を支持して成氏方を反乱軍と断定し、これを抑えるために将軍・足利義政は弟の政知を成氏に代わる鎌倉公方とすべく関東に派遣。政知は伊豆国堀越(静岡県伊豆の国市)に留まり、堀越公方と称した。それに対し成氏は何度かの改元があったにもかかわらず"享徳"の年号を使い続けるなど、自ら独立の動きを示した。
文明3(1471)年、上杉方に攻められ古河から逃走するが、翌年には古河に戻り、同年末上杉氏と和睦し、文明14年末には幕府との和睦も実現した。こうして30年におよぶ戦乱は終わり、成氏はその勢力圏を保持したものの、結局鎌倉に帰ることはできず古河の地で死去した。
幕府との和睦によってこの「享徳の乱」は終息したが、これ以降、もはや関東に対する室町幕府の影響はほとんどなくなった。関東は古河公方を中心に群雄割拠の状態となり、終わりのない戦国時代に突入していく。