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コンスタンティン・チェルネンコの編集履歴

2021-11-14 15:51:07 バージョン

コンスタンティン・チェルネンコ

こんすたんてぃんちぇるねんこ

ソビエト連邦の政治家。第6代ソビエト連邦最高指導者

概要

コンスタンティン・ウスチーノヴィチ・チェルネンコ(ロシア語:Константи́н Усти́нович Черне́нко、ラテン文字表記の例:Konstantin Ustinovich Chernenko、1911年9月24日 – 1985年3月10日)は、ソビエト連邦の政治家。第6代ソビエト連邦最高指導者。中央委書記長、最高会議幹部会議長を兼任した。


ブレジネフに連なる守旧派の一人であり、1982年11月にブレジネフが死去した時に後継者と目されていたが、改革派であるKGBユーリ・アンドロポフ議長が書記長に就任したことで1度は敗北した。しかし1984年2月にアンドロポフが死去し、党書記長兼最高幹部会議長として最高指導者の地位に付いた。ちなみにアンドロポフが後継者と目していたのは、ミハイル・ゴルバチョフであった。


ブレジネフ時代への回帰を目標としたものの、アンドロポフの国葬時から目に見えて衰弱しており、階段の上り下りも満足に行えない有り様だった。西側諸国では度々チェルネンコの重病ぶりが取り沙汰されており、その懸念は的中することとなる


経歴

1911年9月24日にロシア帝国のクラスノヤルスクのノヴォショーロヴォ地区ボリシャヤ・テシ村に誕生する。1929年にコムソモールに入り、同年にノヴォショーロヴォ地区宣伝・煽動部長となる。1930年に軍に志願し、ソ連と中華民国の間の国境警備隊に配属される。


1931年に共産党に入党し、軍の除隊後はクラスノヤルスク地方党宣伝部副部長、クラスノヤルスク地方党書記を務めた。モルダビア(現在のモルドバ)のキシニョフ教育大学を卒業し、1945年にペンザ州党委員会書記、1948年にモルダビア共和国共産党中央委員会宣伝扇動部長となる。


1956年に党宣伝部大衆煽動活動課長に登用され、1960年5月にブレジネフが最高会議幹部会議長(国家元首に当たる)に就任すると同時にその首席補佐官に就任した。1964年10月にフルシチョフが失脚し、ブレジネフが第一書記(1966年4月に書記長に改称された。)に就任すると、1965年8月に党中央委員会総務部長となった。1971年に中央委員会委員、1976年3月に中央委員会書記、1977年10月に政治局員候補、1978年11月に政治局員となった。


1977年に憲法改正委員会の委員として新憲法の制定に尽力した。1984年2月に最高指導者となり、死去する1985年3月までその地位にあった。


1985年3月10日にモスクワにて、肺気腫で死去した。これによってブレジネフ、アンドロポフと続く老人支配の時代の幕引き役を演じ、若いゴルバチョフに政権を委ねることになる。


功績

改革派とされたアンドロポフの人事に手をつける前に死去した為、これによりゴルバチョフが昇進する結果となった。


関連タグ

ソ連 ソビエト連邦共産党

先代 ユーリ・アンドロポフ

次代☞ミハイル・ゴルバチョフ

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