概要
ガメラ対不死鳥(フェニックス)とは、1995年に発売された小説である。
著者は、昭和ガメラ映画作品の、全ての脚本を手掛けた脚本家・高橋二三氏。
挿絵は、往年の名挿絵師の柳柊二氏。
内容
地上絵で有名なナスカにて、新たに206番目の地上絵が見つかった。
そして、その中からガメラが出現した。
ガメラはそれまで、バルゴンからジグラまでの怪獣を倒したため、正義の怪獣と思われていた。が、ガメラは化学工場を見つけると次々に破壊し始め、その評判を落とす事に。
そして、ある時。フロンガスによりオゾン層に穴が開き、そこから太陽光線がレーザーのように放たれ、新小岩のマグマ層に穴を開ける。
そこから出現したのが、全身が炎で構成された巨鳥・フェニックス。
フェニックスは自分の身体を東京タワーに突き刺して溶かしたり、爆弾に体当たりして爆発を起こしたりするため、社会では敵とみなされるように。
ガメラはフェニックスへと向かうが、火炎は効かず、回転ジェットで体当たりして身体を切断しても効かず、氷や海水でも倒す事は出来ない。
そして、そんなフェニックスを見て、ある種の親近感を抱く者も。
野中美輪。ひとみ保育園で「みわせんせい」と呼ばれている、若い保母さん。
だが、彼女には秘密があった。八百比丘尼……フェニックスと同じく、不老不死の存在であるという秘密が。
解説
本作は、高橋二三氏のオリジナル脚本を、本人が小説と化したものである。
元はガメラのオリジナルビデオとして企画されたものだったが、実現せず(ビデオの方は、1991年発売のLD『ガメラ永久保存化計画』の映像特典として、ガラシャープが登場するものが作られた)。
後に、平成ガメラシリーズが製作され、そのノベライズが小学館スーパークエスト文庫より発売された際、同文庫より発売された。
昭和ガメラを手掛けた高橋氏の著作であるため、作風も昭和ガメラのそれに近い。
ジャンルは怪獣ものではあるが、それ以上に「国家や社会、時代など、抗いようもない巨大な力に翻弄され、辛苦の人生を歩まされた者たちの悲劇」というテーマが色濃く描かれている。それはガメラとフェニックスも例外ではなく、むしろ怪獣たちですらも、身勝手な人間たちの我欲による被害者であるという描き方をしている。
劇中には、日本の先住民たちが登場。彼らは『山の民』と呼ばれ、後に『大和の民』、すなわち日本の朝廷および、日本の民に取り込まれ、文化ごと消滅。
が、山の民は己の同族の肉体の一部を口にする事で、八百比丘尼と化してしまう、という設定に。
そして八百比丘尼、不老不死に近い長命の存在になっても、彼らは死ねぬゆえに家族に先立たれ、死ねぬことで孤独に生きねばならない。登場する「みわせんせい」なども、仲間の身体を口にする事で八百比丘尼になっている。
※ただし「みわせんせい」などが八百比丘尼になったのは、飢饉で死にそうになったところに、親が仲間の肉を差し出したためであり、望んでの事ではない。彼女らもまた、時代に翻弄された被害者と言える。
ただし、このようなテーマを前面に押し出した作りになっているため、怪獣ものジャンルとしては非常に読みにくく、人を選ぶ作品になってしまっている。
加えて、話の筋があっちこっちに逸れまくっており、非常に散漫で理解しづらい。
出現したガメラとフェニックスの戦いの最中に、劇中の人物の過去話や、八百比丘尼の解説や説明を挟んでしまうため、読者は物語の把握を中断させられてしまう。
更に「B面」と銘打ち、章を二つ用いて、関連する過去のエピソードを途中に挿入している。そのため、物語自体の理解しづらさにさらに拍車をかけてしまっている。
章の一つは、「みわせんせい」こと野中美輪が、なぜ八百比丘尼になってしまったかのエピソード。比丘尼と化したのち、どのような人生を送って来たのかを描いたエピソードが語られている。
もう一つの章は、満州棄民に関するもの。太平洋戦争が終了した頃、満州に渡った美輪が日本の敗戦後に棄民とされ、その時に体験した艱難辛苦を描いている。
これらの章は、どちらも物語として非常に興味深く魅力的な内容ではある、しかし、同時にこれらの章を挿入しているために、物語そのものの流れがぶつ切りになってしまい、読みづらく、把握しづらくしている。
そのため、昭和ガメラの映画のように「怪獣(ガメラ)が大暴れする内容」を期待したら、肩透かしを食らうような印象を受けてしまう。
とはいえ、決して駄作ではなく、むしろガメラの新たな魅力を描き、ガメラの作品世界をより広げ、深い考察と、(読者に)様々な事を考えさせる内容になっている。
数少ないガメラ小説の、貴重な一作でもある。
余談
作中でガメラは、回転ジェットの際に甲羅の縁を丸鋸状に変形させ、そのまま体当たりして対象を切断するという、まるで『ガメラ3』での「シェルカッター」を思わせる攻撃を行っている。