赤眉軍
せきびぐん
新朝末に山東省で発生した農民反乱軍。
眉を赤く染めて味方の目印としたことから「赤眉軍」と称された(「赤眉の賊」とも)。
14年、海曲県の老女・呂母が息子を県宰に処刑された事を怨み、復讐を誓った。
呂母は若者らに金や酒をバラ撒き、資産を使い尽くした。それを知った若者達がツケを払おうとした時、呂母は仇討ちへの加担を求め、数千人で県宰を襲撃して殺害し、呂母は満足して死去する。
しかし若者達は解散せず、18年に莒県で蜂起した樊崇の農民反乱軍に合流した。
反乱軍は泰山を拠点に新朝に対抗し、数万人の軍勢に膨れ上がる。
22年、王莽は王匡と廉丹に約10万の兵を与え、赤眉軍を討伐したが失敗に終わる。
23年、緑林軍の担いだ更始帝(劉玄)が長安に入り新朝を滅ぼす。赤眉軍は更始帝に帰順したが、すぐに離反。
25年、赤眉軍は劉盆子を皇帝に擁立。長安に侵攻し、投降した更始帝も殺害した。
しかし、その時点で赤眉軍は軍の維持が限界に達し、各地に食料を求めて移動する。隴右への行軍時に大雪に見舞われ甚大な被害を受けた。