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赤眉軍の編集履歴2023/02/17 13:37:44 版
編集者:勿茂
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朝末に発生した農民反乱軍

を赤く染めて味方の目印としたことから「赤眉軍」と称された(「赤眉の賊」とも)。

14年、海曲県の老女・呂母が息子を県宰に処刑された事を怨み、復讐を誓った。

呂母は若者らに金や酒をバラ撒き、資産を使い尽くした。それを知った若者達がツケを払おうとした時、呂母は仇討ちへの加担を求め、数千人で県宰を襲撃して殺害し、呂母は満足して死去する。

しかし若者達は解散せず、18年に莒県で蜂起した樊崇の農民反乱軍に合流した。

反乱軍は泰山を拠点に新朝に対抗し、数万人の軍勢に膨れ上がる。

22年、王莽王匡廉丹に約10万の兵を与え、赤眉軍を討伐したが失敗に終わる。

23年、緑林軍の担いだ更始帝劉玄)が長安に入り新朝を滅ぼす。赤眉軍は更始帝に帰順したが、すぐに離反。

25年、赤眉軍は劉盆子皇帝に擁立。長安に侵攻し、投降した更始帝も殺害した。

しかし、その時点で赤眉軍は軍の維持が限界に達し、各地に食料を求めて移動する。隴右への行軍時に大雪に見舞われ甚大な被害を受けた。

その後、長安に戻るが関中を放棄して河南省へ向かい、光武帝劉秀)の差し向けた馮異の軍に敗れ、宜陽で光武帝に投降した。

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