ピクシブ百科事典は2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

紀尾井坂の変の編集履歴

2012-06-02 12:14:05 バージョン

紀尾井坂の変

きおいざかのへん

紀尾井坂の変とは、明治11年5月14日に発生した参議兼内務卿・大久保利通暗殺事件。石川県士族と島根県士族(旧鳥取藩士)からなる六名によって決行された。

概要

実行犯は石川県士族島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一および島根県士族の浅井寿篤の六名。そのなかでも島田一郎が中心となって計画を進めた。

当時日本は大きな制度変革が原因で、元武士である士族の不満が高まっていた。そんな士族たちの高い支持を得ていた西郷隆盛らが、内務卿の大久保利通らとの政争に敗れて政府を去り、西南戦争を引き起こして敗北・自決する。島田らはこの一連の流れに激怒し、大久保暗殺を計画することとなった。


5月14日午前8時30分頃、六人は出仕に向かっていた大久保の乗る馬車を紀尾井町清水谷で襲撃。馬の足を切り、御者を殺した後に大久保を引きずり出し、全身十六カ所の傷を負わせて殺害した。

犯行の後、六人は大久保やその他政府要人の斬奸状(悪人を斬る際に、その理由をまとめた書状)を携えて自首した。そして約二ヶ月後の7月27日に死刑判決を言い渡され、即日斬罪となった。


当時はまだ内閣制度が無く、内務卿とは実質的な首相であった。また、彼の死によって明治維新の功労者・維新の三傑(残りの二人は西郷とこの事件前年に病死した木戸孝允)は全員この世を去ることとなった。薩摩出身の最有力者であった彼の死により、政治は伊藤博文山県有朋ら長州出身者に主導されることとなる。

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました