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紀尾井坂の変

きおいざかのへん

紀尾井坂の変とは、明治11年5月14日に発生した参議兼内務卿・大久保利通暗殺事件。石川県士族と島根県士族(旧鳥取藩士)からなる六名によって決行された。
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概要編集

実行犯は石川県士族島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一および島根県士族の浅井寿篤の六名。そのなかでも島田一郎が中心となって計画を進めた。なお、計画には島根県士族の松田秀彦や、脇田の生徒で松田克之という人物も加わっていたが、実行には参加していない。

当時日本は大きな制度変革が原因で、元武士である士族の不満が高まっていた。そんな士族たちの高い支持を得ていた西郷隆盛らが、内務卿の大久保利通らとの政争に敗れて政府を去り、西南戦争を引き起こして敗北・自決する。島田らはこの一連の流れに激怒し、大久保暗殺を計画することとなった。


5月14日午前8時30分頃、六人は出仕に向かっていた大久保の乗る馬車を紀尾井町清水谷で襲撃。馬の足を切り、丸腰ながら抵抗しようとした御者の中村太郎を殺害。馬車の中で書類に目を通していた大久保は異変に気付き馬車から出ようとしたが、島田らは扉を塞いで阻止した上で大久保を馬車から引きずり降ろした。大久保は「無礼者」と一喝したが、護身用の武装を一切していなかったため、なすすべなく斬殺された。その遺体の様子は元老院議官の前島密が、「肉が飛び骨が砕け、頭蓋骨が裂けて脳が微動しているのが見えた」と表現するほど惨たらしいものであった。

犯行の後、六人は大久保やその他政府要人の斬奸状を携えて宮内庁に出頭した。これは彼らが『暗殺は卑怯である』という考えを持っていたからであるという。そして約二ヶ月後の7月27日、全員死刑判決を言い渡され、即日斬罪となった。

事件の追及は広範に及び、六人の他に自らも計画者であると自訴した松田克之や、斬奸状を起草した陸義猶は終身刑に処せられ、松田秀彦も連座して服役した。事件に快哉を叫んだ内容の手紙を送った石川県人など30名も逮捕されている。


当時はまだ内閣制度が無く、内務卿とは実質的な首相であった。また、彼の死によって明治維新の功労者・維新の三傑(残りの二人は西郷とこの事件前年に病死した木戸孝允)は全員この世を去ることとなり、この事件は海外でも報道された。薩摩出身の最有力者であった彼の死により、政治は伊藤博文山県有朋ら長州出身者に主導されることとなる。


斬奸状編集

斬奸状とは、悪人を殺害する際、その殺害されるに値する罪を書き連ねた書状である。

この事件では島田の依頼により、彼と旧知であり同志でもあった陸が起草した。

内容は以下の五罪。


  • 国会も憲法も開設せず民権を抑圧している。
  • 法令の朝令暮改が激しく、また官吏の登用に情実・コネが使われている。
  • 不要な土木事業・建築により国費を無駄遣いしている。
  • 国を思う志士を排斥して内乱を引き起こした。
  • 外国との条約改正を遂行せず国威を貶めている。

余談編集

事件の数日前、大久保は前島密に自身が見た悪夢について語っている。

その内容とは「西郷と口論して、彼に追われた私は高い崖から落ちた。自分の脳が砕けてぴくぴくと動くのが見えた」と語っており、結果的に正夢になってしまった。


関連タグ編集

明治時代 大久保利通


瀬田宗次郎…漫画るろうに剣心における紀尾井坂の変の実行犯。作中では史実暗殺者である石川県士族らによる暗殺実行の直前に馬車内に忍び込み大久保を刺殺し逃走。直後に馬車を襲った士族たちが大久保の遺体を切り刻んで警察に出頭した事により、明治政府にとっても事の真相を公にする訳にはいかない事情があった事も相まって公には彼等による犯行という事にされている。

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