失敗して恥ずかしがっている他者を見て、それを自分事のように感じてしまう事を指す心理学用語。
「見てるこっちが恥ずかしくなる」とも言い表わされる。
家族や友人などの失敗はもちろん、テレビで出演者が恥をかくシーンや芸人がスベる場面、果てはゲームや漫画など創作上の人物の失敗すらも見るのが辛くなってしまう感覚を指す。
なお、心理学においては失敗した当の本人が恥ずかしさなどを感じていないにもかかわらず、見ている人間が恥ずかしさを覚える現象のことを厳密には観察者羞恥と呼んで区別している。
従って、実は上記の「見ているこっちが恥ずかしくなる」もどちらかといえば観察者羞恥において使われることが多い。
ただし、今日の「共感性羞恥」はネットスラングに近く、その場合はこちらの本人が恥ずかしさを覚えていないパターンも含めることが多い。
と、いうかどちらかといえば観察者羞恥と呼ぶべき現象に使われることの方が多い傾向にある。
特に、各種動画サイトやイラスト・小説投稿サイト等において、投稿者本人は恥どころかむしろノリノリで大公開しているが他者からすれば非常に痛い行為・作品を見た際、数年後に訪れるであろう羞恥や後悔を予見して嘲笑よりむしろいたたまれない気持ちを覚える現象を指すケースがほとんどである。
更に、最近では周囲の人間が困惑、あるいはドン引き等、何らかの恥ずかしい目に遭っているであろう人物を取り囲んでいるところを一人称視点で眺めているような構図のイラスト等につけられていることがある。こちらは「イラスト中の人物の反応を見て、自分が何か恥ずべき状況になっている感覚に陥る」といった意味でつけられていることが多く、ネット上ではこれが正しい共感性羞恥であるとする説も多く見られる。
ただし、実は「一人称視点を担当する恥ずかしがっているの登場人物」はイラストを見る者の想像でしかなく、枯れもしくは彼女が恥ずかしがっているかどうかは見る者の想像でしかない。さらに根本的なことを言えば、イラスト中の集団に取り囲まれているのが人間であるという前提すら想像でしかないため、厳密には心理学上では共感性羞恥どころか観察者羞恥ですらないケースもある。どちらかといえば自己投影の一種であると考えるべきだろう。
なお、キャプション等で見つめらているのが人物であり、恥ずかしがっていることが示されている場合は心理学的にも共感性羞恥に含むことになる。