情治国家
じょうちこっか
概要
民意という感情論に司法が歪められ、「法」よりも「感情」を優先される国家に対する俗称(または蔑称)。
別名は「人治国家」。
本単語を語る時には韓国が挙げられやすい。
国民が憤りを覚えるような事件が起こると、ネット上で騒ぐだけならまだしも司法にまで感情が及び、通常の法治国家ではありえないような判決が下ることも珍しくない。
このため韓国を法治国家とは認めない者も少なくない。
対義語は「法治国家」。
ちなみに先進国の条件として経済力だけでなく「法治国家であること」が含まれていることが多い。そのため中東の産油国(サウジアラビアなど)は経済的に裕福であっても先進国に含まれないのが普通である。
ただし、「法治国家」の「法治」についても、古代中国の思想の1つとしての「法治」、近代西欧由来の概念としての「法治」、同じく近代西欧由来の概念としての「法の支配」の3つの概念の間には同じ言葉・似た言葉でも様々な意味のズレが有り、注意が必要である。
日本はどうなの?
基本的には良くも悪くも韓国のような感情によって司法が歪められることはなく、概ね法治国家とみなされている。
逮捕前に射殺されることはまずなく生捕りがほとんどだし、世間がいくら騒ごうとも刑が大きく左右されることもまずない。
裁判員制度で民意を反映した死刑判決が高裁で続々に破棄され無期懲役に減刑されることが相次ぎ批判の的になることも多いが、言い方を変えれば「韓国のような情治国家に成り下がってはいけない」というメッセージと取れなくもない。
また「死刑」はもっとも重い刑罰であり、「極刑」とも表現されている。それこそ感情論だけで軽々に下してはいけないものなのだ。
……と云うイメージを一部の日本人が抱いているが、外国人技能実習生が日本国内で子供を死産してしまい、どうして良いか判らなくなった結果、死体遺棄容疑で逮捕され一審で有罪となった事件では、一審の判決文での有罪となった理由の1つとして「日本人の一般的な宗教感情に著しく反する行為」というものが有り、最早、日本も他国の事を嘲笑ったり、とやかく言ったり出来る状況なのかは、疑問の余地が有る。
なぜ情治国家がいけないのか
凶悪な事件が起きると、加害者を許せない義憤と遺族への同情心から加害者に甘い司法に憤りを覚える者も少なくないだろう。
未成年の加害者が刑事罰を免れたり不定期刑判決で済まされたり、心神異常で無罪や減刑判決が下ったりするとさらにその傾向は強くなる。
確かにその気持ちは痛いほど良くわかるし、一種の正義心ともいえるその感情が法秩序を支えていることもまた事実であろう。誰だって人から非難されるようなことを好き好んでは行わないものなのだ。
一方で、犯罪者を処罰する法典である刑法においては「保護法益論」という考え方が近代国家では主流であり、そのため刑法は被害者ではなく社会秩序維持のため、というのが主流の刑法の考え方である。
死刑制度が存続され(韓国は1997年を最後に執行なし)執行されている日本で情治主義が蔓延し死刑判決が乱発されるようになれば人権問題に発展し、国際社会から白い目で見られやがて経済関係にも影響が発展することになりかねないのである。
また下手すれば加害者がイケメンや美女なら減刑、なんてことも起こりかねないし、逆に被害者なら過剰に厳罰になりかねない。
さらに、遺族に寄り添って厳罰を出すようになれば、では例えば身寄りのない天涯孤独な人が殺害された時は悲しむ遺族もいないので刑が相対的に軽くなっても良いことになってしまう。
過去の判例と比較して、一人の殺害で懲役刑となった加害者と極刑となった加害者、複数名の殺害で極刑となった加害者と懲役刑となった加害者がいた場合、それを分ける理由が犯行の残虐性や反省の有無などではなく「被害者遺族や民衆がそれを望んでいるから」というのでは、憲法14条の「法の下の平等」を根底から否定することになってしまう。
日本の判例主義は批判対象となることも多く決して完璧なものではないにせよ、情状酌量の余地を汲んだ上で、平等に冷静な判決を下すという意味では、正常に機能しているのである。
一方、日本の犯罪被害者支援制度は国際的にもかなり遅れているのも事実なので、支援制度を拡充させていく意見を唱えていくのがよっぽど理性的であるし、国際社会からの受けも良くなるだろう。