F-106
えふいちまるろく
難産、F-102
全天候迎撃戦闘機F-102だったが、その開発は困難であった。
特に大きかったのが「パワーはあるのに音速を超えられない」という問題だ。
すったもんだの末、エリアルールの採用でようやく解決となったが、
機体設計の全面変更したおかげで、生産ジグはすべて無駄となってしまった。
生産と開発と同時進行を狙った「クック・クレイギー方式」だったのだが、
大きな裏目に出てしまった。
おかげで開発計画は大幅遅延、開発費用も予算超過の恐れが出た。
とりあえず出来上がった分だけでも完成させる事になり、これがF-102Aとなった。
急遽完成させたF-102だったが、問題も多く噴出した。
まずFCSの開発が間に合わず、仕方なく旧式のものを搭載した。
また、要求をクリアしたとは言っても、パワーはまだまだ不足気味であり、
パワーアップしたエンジン・完成したFCSを盛り込んで再設計することになった。
ここにさらなる性能向上を目指し、F-102Bの開発が始まった。
また、計画途中で名称も変更された。
F-102とは性能も外観も大きく異なる事から、F-106へと改称されたのだ。
(おそらく、別の戦闘機として議会に予算を承認させる意図もあったのだろう)
クック・クレイギー方式
F-106では最初から量産型となった。また、要求仕様も大幅に厳しいものとされた。
そのせいでクリアできない数値が続出したが、
そこは「クック・クレイギー方式」がうまく働いた。
今度は生産機とのフィードバックが上手く行ったのだ。
困難こそあっても、開発は順調そのものだった。
制式採用(予定外を含む)
F-102とは比べ物にならない程、開発は順調に進んだ。
しかし配備へと移って、思わぬライバルが現れた。
F-101B配備計画である。
だが、アメリカ防空軍は「両機の特徴は大きく違い、両機配備が望ましい」として擁護。
こうしてF-106は救われたが、代わりに配備機数は大幅に減らされてしまった。
しかし、防空戦闘機の完成という目標は達せられた。
迎撃システム
当初の計画どおり、F-102では見送られた迎撃システムが組み込まれた。
MA-1迎撃システムである。
これは地上の管制システムに連動し、迎撃地点まで機体を誘導するシステムである。
また、迎撃地点までは全て自動でよく、迎撃後も帰還コースをHUDに表示してくれる。
極端な話、人間は発射ボタンを押し、あとは帰還するだけでよかったのだ。
しかしこの迎撃システム、複雑さに定評があり、
常時50%の稼働率を維持するのも一苦労だったと言われている。
(常時50%:飛行隊18機のうち、飛べるのは9機。残りは整備中)
武装はF-102よりも信頼性が向上した事もあり、増強するどころか減少している。
F-102では機内の兵器庫にAIM-4やAIM-26(両方とも「ファルコン」)を6発、
兵器庫ドアに2.75インチロケット弾を24発内蔵していたが、
F-106ではAIM-4F/G「スーパーファルコン」を4発、
AIR-2A「ジニー」核対空ロケット弾1発となった。
両機ともに機関砲を装備しない。
のちにAIR-2Aの搭載場所を、
M-61バルカン砲に置換する「ミックスシューター計画」が立案されたが、
改修機は僅かだった。
(この計画では、他にもAGM-78の搭載も含んでいる)
海外組、そして晩年。
F-102と違って輸出はされなかった。
その全てがアメリカで使い切られたF-106ではあったが、寿命は驚くほど長かった。
1959年から部隊配備が開始され、最終的には1988年まで州軍で使用された。
なんと29年の長きを勤め上げたのである。
例えるならば、スカイラインGTS(R31)が現役を勤めているようなものである。
(自衛隊では30年前のグロリアワゴンなどが現役だが)
痛みの少ない防空軍配備とはいえ、随分長く使われたものだ。
F-106の後継はすったもんだの混戦の末、F-16の防空型となった。
冷戦が冷戦のままで終結したので、F-106に実戦記録はない。
しかし、同じデルタ翼ということで、ベトナムに派遣される部隊の演習相手を務めた。
想定はMiG-21である。
F-106にとっては、格闘戦は全く想定外の使い方である。
しかし、これがまったく予想外の一面を見せた。
これがどうして強いのである。
エンジンの加速力は十二分、ピュアデルタの翼形により空気抵抗も最小限で、
翼面荷重も小さい。
とくに高い高度での運動性が優秀なのだ。
演習相手を散々てこずらせて、F-106パイロットもさぞ得意だった事だろう。