経歴
孫氏への仕官
生まれてすぐ父親が死去し、祖母と生活した。裕福な豪族の家に産まれたが、施しを盛んにし、やがて家業を放り出し、財産を投げ打ってまで困っている人を助け、地方の名士と交わりを結んだ。
一説には、大業を成す志を有し、人には思いもよらないような大胆不敵な企みを行い、乱世が深まると剣術・馬術・弓術などを習い、私兵を集め狩猟を行い、兵法の習得や軍事の訓練に力をいれていた。このようなことから、郷里の人々には理解されず、村の長老には、「魯家に、気違いの息子が生まれた」とまで言われていたという(『呉書』)。
周瑜が居巣県の長であった頃に、わざわざ魯粛の元に挨拶に赴き、同時に資金や食料の援助を求めた。この時、魯粛は持っている2つの倉の内の片方をそっくり与えた。周瑜は魯粛の非凡さを認め、これをきっかけに親交を深めた。
魯粛の名声が高まると、袁術に請われ配下となり、東城県の長に任命された。しかし魯粛は、袁術の支離滅裂な行状に見切りをつけ、一族や血気盛んな若者を多く含んだ郎党を引き連れて、居巣の周瑜を頼った。やがて、周瑜とともに長江を渡り、曲阿に家族を住まわせた。このとき、魯粛は私兵を引き連れて、渡河を阻止しようとする役人達を弁舌と武力で説得し、長江を強引に渡って、孫策に目通りをし、孫策からもまた非凡さを認められ尊重されたという(『呉書』)。
やがて祖母が死去すると、魯粛は柩を守って東城に戻り、葬儀を営んだ。その時魯粛の元に友人の劉曄から手紙がきて、母親を迎えに帰った時、一緒に巣湖に拠って1万の兵士を集めていたという鄭宝の下に行くことを勧められた。魯粛は手紙を劉曄に送ってそれに賛同し、曲阿に戻って母親を迎えに行こうとした。その頃に孫策が没し孫権が跡を継いでおり、周瑜は魯粛の母親の身柄を呉に移していた。魯粛は事情を周瑜に説明したが、周瑜は孫権の王者としての資質と江南の天運の存在を挙げ、逆に魯粛を説得した。魯粛は北へ戻ることを思いとどまり、周瑜の推挙により改めて孫権に仕官した。
大胆な戦略
魯粛が孫権に初めて謁見した時、孫権は魯粛を大いに気に入り、他の客が帰った後も彼1人を呼び戻して、酒を酌み交わし天下を論じたという。「漢室再興」を望む主君に対して、漢の高祖の例を挙げつつ「漢室再興も、曹操を除く事も、共にすぐには不可能」と断じ、まずはじっと様子を伺い、北方の騒乱に乗じて黄祖・劉表を攻めて荊州を制圧し、長江を北岸として割拠してから、自ら帝王を名乗るべしとした。
この戦略は、後年における諸葛亮の天下三分の計に先んじるものであり、且つ「自ら帝王になれ」という非常に野心的で大胆過ぎる提案であった。孫権は「今は地方が手一杯。漢室がお救いできればと願うばかりで、そのような事は及びもつかないな」と答えるのみだった。
重臣の張昭は魯粛の不遜さを咎め、たびたび非難をした。しかし、孫権は意に介さず、ますます魯粛を尊重し、厚く持て成したため、魯粛の母親は以前の資産家であった頃と、同様の生活が送れるようになった。
孫劉同盟を司る
赤壁の戦いの直前に劉表が死去すると、すぐに荊州の様子を探りに行くように進言し、劉表の弔問の使者となることを申し出た。孫権は魯粛を使者として送ったが、夏口まで来たところで既に曹操が荊州征伐の軍を起こしたことを知り、ただちに南郡に急行した。そこで劉琮が曹操に降伏し、劉備が逃走し江夏に向かっていることを知り、魯粛は劉備を迎え取るため出向き、当陽の長坂で劉備との対面を果たした。
魯粛は孫権の意向を伝え、劉備と同盟を結び曹操と対峙する事を進言した。劉備はこれを喜んだ。さらに諸葛亮と話し合って親交を結んだ。劉備が夏口に着くと、魯粛は孫権の下に復命をするために帰還したが、このとき劉備は諸葛亮を使者として魯粛に同行させた。孫権の陣営は曹操への降伏論に傾きつつあったが、魯粛は一人沈黙し、孫権が厠に立ったときにこれを追いかけた。孫権は魯粛の存念を尋ねたところ、魯粛は孫権には自分と違い、曹操に降伏しても身の置き所がないと言って、降伏論には孫権にとって利がないことを論じた。孫権は、実は降伏論に失望していたことを打ち明け、魯粛の存在を天からの贈り物として称えた。なお、孫権にわざと降伏を勧めて挑発し、孫権が自らをを斬ろうとしたことを喝破したという逸話もある(『魏書』『九州春秋』)。
周瑜は使者として鄱陽にいたが、魯粛は孫権に進言し、周瑜を呼び戻すよう勧めた。周瑜が帰還すると、孫権は周瑜に軍の総指揮を任せ、魯粛を賛軍校尉に任命し補佐させた。孫権は部将達を集めた前で、魯粛にわざわざ一礼して、謙った発言をして功績に報いようと述べたが、魯粛はそれでも不十分だといい、孫権が天下を統一して天子になって初めて、自分は報われるのだと述べ、孫権を喜ばせた。
赤壁の戦いの直後、劉備は荊州南部の武陵・長沙・桂陽・零陵の四郡を曹操より奪い、南郡の公安を手に入れた。劉備は呉の京城を訪問し、荊州の督としてくれるよう孫権に求めた。これには周瑜や呂範といった人物が反対し、劉備をこのまま引き止めておくよう孫権に求めたが(「周瑜伝」、『漢晋春秋』)、魯粛は曹操という大敵に対抗するためには劉備に力を与えておくべきと考え、これに賛成し、孫権は劉備に荊州を貸し与えたという。
このような中で周瑜が死去すると、その遺言で後継役として選ばれ、魯粛は奮武校尉に任命され軍隊を取りまとめ、周瑜の兵士4千人ほどと、所領の4県を有した。程普が南郡太守に任命される一方で、魯粛は江陵に軍を置いたが、やがて陸口に駐屯地を移した。地方でも彼の威徳は行き渡り、兵士は1万人ほどに増強された。漢昌太守・偏将軍となった。214年の戦いでも孫権に従って功績を挙げた。やがて横江将軍に転じた。
かつて孫権が益州に遠征しようとしたとき、劉備は反対したが、後に劉備自身が益州への侵攻を企図したため、孫権は怒り、孫権と劉備との関係は緊張した。魯粛と劉備の部下で荊州を守っていた関羽との間でも、荊州を巡ってしばしば紛争が起こるようになったが、魯粛は劉備と同盟し、曹操に当たることが孫呉の将来のためであると信じ、劉備達には常に友好的な態度で接し、事を荒立てないようにした。
214年、劉備が益州を併呑したことを知った孫権は、荊州の長沙・桂陽・零陵の返還を求めたが拒絶されたため、呂蒙に命じてこの3郡を攻略させた。劉備はこの知らせを聞くと自ら公安に出陣し、関羽にも三郡への救援を命じた。魯粛は益陽に出陣し、関羽の軍と対峙し、一対一での対面を求めた。関羽もそれに応じ、それぞれの兵馬を百里下げ、護身用の剣をそれぞれが一振りだけ身につけ会談に臨んだ。魯粛は常に毅然とした態度で臨み、反論する者を怒鳴りつけ、引き下がらせたという。結局、劉備に荊州南部の2郡(長沙・桂陽)を返却させることに成功した。
217年に46歳で死去した。孫権は哭礼し、葬儀にも直々に参加した。また、諸葛亮も喪に服した。
魯粛はこれ以前、呂蒙が武力一辺倒の人物であると侮っていたが、呂蒙は学問に励み知勇兼備の将軍に成長した。魯粛が陸口に陣地を移す途中で呂蒙の下を訪れたときには、逆に計略の指南を受けるまでになっていたため、呂蒙の母親に面会を申し入れ、親しく付き合うようになっていたという(「呂蒙伝」)。孫権は魯粛の後任に当初は学者の厳畯を起用するつもりであったが、厳畯が固辞したため、呂蒙を後任として起用した(「厳畯伝」)。
孫権は後に皇帝となった後、魯粛はこのことを予見していたと述べ、改めて敬意を示したという。
人物
「方正謹厳で、自らを飾ることが少なく、その生活は内外共に質素であった。人々が持て囃すようなことには興味を示さなかった。軍の指揮に当たっては、等閑なところがなく、禁令は誤りなく行なわれた。軍旅の間にある時にも、書物を手から離すことなく、また思慮は遠くに及んで、人並み優れた明察力を備えていた。周瑜亡き後、呉を代表する人物であった」と評している(『呉書』)。
正史では、虚々実々の渡り合いを見事にこなし、沈着冷静にして剛毅な人柄であることが窺える。特に、赤壁の戦い以降、煩雑な情勢を巧みにあしらい、あわよくば荊州をものにせんとする劉備を退けるなど、外交官・行政官としても卓越した手腕の持ち主であり、柔軟さに優れた戦略家であった。
三国志演義
小説『三国志演義』では、知略に優れた人物として扱われつつも、温厚かつお人よしな性格のために諸葛亮にあしらわれ、周瑜に詰られるという損な役回りを演じている。また、正史では成功した関羽との交渉も、演義では不調に終わり追い返されてしまっている。こうしたキャラクターのためか、連環画などではその性格を表した風貌に描かれることが多い。また、その最期は管輅が占いにより曹操の前で予言した、という設定になっている