1933年に『宮沢賢治追悼』を発表、これが後に賢治の作品が世に知られるきっかけとなる。それまでは花巻に住む無名の詩人だった賢治の名が知られるようになったのは心平の努力によるものである。その後、友人である高村光太郎も賢治を研究した。
1935年に詩誌『歴程』を主催。
1987年(84歳)で文化勲章を受章した。
酒を好んだ詩人でもある。居酒屋「火の車」、バー「学校」、焼き鳥屋「いわき」を経営した。この店には文人仲間が集まり、光太郎は智恵子夫人を連れてよく訪れた(嵐山光三郎『文人悪食』)。また、腕っぷしも強かったようで、壇一雄と掴み合いの喧嘩をした末、親友となった。