製造元は、大日本帝国陸軍の装甲兵器開発局。
全高2.3メートル、重量3.5トン。
細かい仕様変更により、全幅や奥行きなどが若干変化する場合がある。
正式名称を「東雲式半人型起重踏破機」と言うが、省略してシ式と呼ばれる場合が多い。
動力はガソリンエンジンもしくはディーゼルエンジンにより、背面の真空ポンプを駆動し、関節部のシリンダーから空気を「抜く」事で駆動する。
これにより、意外と少ないエンジン出力の割に、大きな駆動力を持つ事となった。
ガソリンエンジン搭載の甲型、ディーゼルエンジン搭載の乙型、そして甲型を改造して薪を燃料とする(いわゆる木炭エンジン、ガソリンエンジンの構造をほぼそのまま使える)丙型の
三種類のタイプが存在する。
第二次大戦を通して生産されるが、その数は当時の日本の工業力の不足、戦局の悪化、物資の枯渇もあり、全生産数は26機に留まっている。
元々は「動力甲冑」と呼ばれるパワードスーツのような兵器として研究されていた経緯を持つ。
機関銃で武装した敵陣に突撃可能な防御力、当時の戦車に匹敵する火力を歩兵に持たせるべく、歩兵個人の身体機能と体力を補助するという目的で研究が進められていた。
しかし、当時の技術では、必要とされる性能を人間と同等の大きさまでコンパクトにする事はできず、仕方なく大型化が図られた。
元来は装着する物だった構造を、戦車のように乗り込む構造に改め、操作は操縦席に設けられた上半身だけの人形のような操縦幹を動かす事で行われる。
しかし、ここで問題が露呈する。
下半身は当初、歩兵の延長線上に作られた物である為、人間の脚と同じ構造で、二足歩行する物となっていた。
だが、大型化により脚の構造が重量に耐えられず、特にヒザの部品が断裂する事故が頻発。
一時は九四式軽装甲車の車体を流用する事まで検討されたが、開発者・東雲 宏一郎は、食事中のひょんなきっかけから「脚の構造自体を変更する」という荒業を思いつき、この欠点を解消する。
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結果、脚はお椀を伏せたような防弾鋼板製の外装脚と、胴体を真下から支える支柱脚による、変則的な形の二足歩行となった。
また、この構造によって野砲を取り扱う際の安定性が確保され、中島一式戦闘機「隼」に搭載されるホー103機関銃をベースとした12.7ミリ改造携行機銃と、九七式中戦車(チハ)の主砲と同じ砲弾を使用する試製携行砲が開発される。
この時、時代は丁度、日米開戦へと動いた頃であった。
開戦に際し、1番機、2番機、3番機が東南アジアでの作戦に加わったとされるが、文書や記録などは終戦時に焼かれて失われた。
結果として1945年8月15日、大日本帝国の無条件降伏の際、機密保持の為に図面を含めた文書が処分され、また残った機体も分解・破棄される事が決定する。
だが、工場で動ける状態にあった12機が終戦の混乱の隙に行方をくらまし、広島市への原子爆弾投下に伴う救助活動に従事した7番機は人目を避けて防空壕に隠され、長崎で同じく活動した11番機は雲仙岳に運ばれ、火口に放り込まれて廃棄される所だったが、道中で謎の失踪を遂げる。
これら行方不明になったシ式が発見されるのには、およそ6~70年余りの時を要する事になる。