川島永嗣
かわしまえいじ
キャリア
プロデビュー前
地元与野の少年サッカークラブにて、サッカーに触れるようになっており、当時よりゴールキーパーを志していたとの事。
中学校時代には埼玉県選抜メンバーとしてドイツ・オランダへの遠征を経験。高校は県立浦和東高等学校に進学し、在学3年間のうちに選手権・国体・高校総体の高校サッカー3大全国大会に出場している。
大宮アルディージャ時代
高校卒業後大宮アルディージャに入団。この時イタリア・セリエAへ「留学」をしている。そこで才能を見出され、中田英寿も所属したパルマより移籍の打診を受けるが、大宮がこれを断っている。
また名だたるサッカー解説者より非常に高い評価を得ており、特に辛口と知られているセルジオ越後氏、金子達仁氏の両名より「川島の存在は光」「川口能活以来の逸材」と絶賛されている。
名古屋グランパス時代
2004年に、当時のサッカー日本代表GKであった楢崎正剛に挑戦する意味合いをこめて、名古屋グランパスに移籍をする。
しかしながら楢崎の牙城は強固で、控えに甘んじる事が続く。
それでも楢崎の負傷などでチャンスを得ると、正GKを射止めるまでにはならなかったものの、存在感を十分発揮している。
ちなみに大宮時代に続いて、またもセリエAのクラブが獲得に動いたものの、正式なオファーまでには至ってない。
川崎フロンターレ時代
2006年オフシーズンに、AFCチャンピオンズリーグを控えていた川崎フロンターレより熱烈なラブコールを受けて移籍。
当時の川崎としては最高額の移籍金を支払う形で、名古屋からの完全移籍となった。
移籍直後から守護神として活躍し、それまでの川崎の弱点を見事にカバーする形となる。
A代表召集・W杯出場・欧州挑戦へ
2008年。遂に待望のA代表に召集される。しかしデビュー戦で、川崎でのチームメイトでもある北朝鮮代表FW鄭大世に、ゴールを許してしまう苦い代表デビューとなる。
2010年。川島にとって最大の転機が訪れる。
FIFAワールドカップ南アフリカ大会直前の対イングランドとのテストマッチで、イングランドの名手フランク・ランパードのPKをストップするなど、ビッグセーブを連発。許した失点は味方DFのオウンゴールのみと言う大活躍。
大会直前で川口・楢崎を押しのけ、日本代表の守護神となる。
その大会で、決勝トーナメント第1回戦でパラグアイに敗れた試合を含め、4試合2失点。さらにその2失点となったシュートに2本とも触れている。(内一点はPKによるもの)
この大会後に大会での活躍が認められ、念願の欧州挑戦を果たす。
リールセでの活躍
リーグ開幕より正GKとして出場するものの、チームの戦力は十分とは言えるものではなかったため、勝ち星には恵まれていない。
しかしながら、敗戦した試合でマン・オブ・ザ・マッチ(試合毎に選出されるMVP)に輝くなど、チームの中心メンバーとして奮起。
逆転残留を決め、サポーターの投票によるシーズンMVPに選出された。