概要
開発前史
当時陸軍で運用していた九七式中戦車は中国軍との戦闘に
主眼を置いていたため戦車はあくまで歩兵の補助の役目が強かった。
しかし、大東亜戦争に突入し九七式中戦車は南方作戦における
ビルマ攻略戦やフィリピン攻略戦に投入され主砲(九七式五糎七戦車砲)の
威力不足から連合軍のM3軽戦車にすら苦戦することとなる。後に、
一式四十七粍戦車砲に換装した九七式中戦車 チハ新砲塔と一式中戦車チヘを実用化し、
M3軽戦車に対抗可能となるが、M4中戦車には苦戦を強いられることとなる。
それとは別に陸軍は欧州戦線からの情報により、対戦車戦闘を主眼に置いた戦車の開発を行なうこととなった。それが、のちの四式/五式中戦車である。しかし戦局の推移よりそれらの車両が間に合わないと判断するとそのつなぎとなる車両こそがこの三式中戦車であった・・・。
開発
車体は九七式中戦車や 一式中戦車の流れを汲む物であるが、主砲は九〇式野砲を対戦車砲化した三式7.5cm戦車砲が搭載されている。
九〇式野砲を搭載した車両としては他に 一式砲戦車(一式7.5cm自走砲)が存在するが、
一式砲戦車とは異なり砲口制退機が装着されている。また砲が大型化したため砲塔自体も大き くなったが、日本戦車の特徴であった砲塔後部の機銃搭載は廃止され、替わりに弾薬ラックが装備されるようになった(このため弾薬搬入用として砲塔後部にもハッチが装備された)。車体や搭載エンジン は一式中戦車とほぼ同等の物であるため、重量が増加した分だけ機動性は若干低下している。量産に着手できたのは1944年(昭和19年)になってからのであった。
性能
三式戦車砲は徹甲弾を使用する事により約600mの距離でアメリカ陸軍の制式戦車であるM4中戦車の正面装甲を可能性は低いものの打ち抜けるとされており(ただし使用弾は少数配備の特甲の可能性が高い)、日本戦車として初めて正面からM4の撃破が挑める車両として期待されていた。
しかし、車体部分は九七式中戦車や 一式中戦車とほぼ変わっておらず、防御面に不安があり、M4の75mm戦車砲を1000mでも防ぐのはムリゲーであり本車両はあくまでも米国で言うGMC(自走式対戦車砲)のように敵戦車を正面からではなく側面から砲撃するような運用法を最初から想定していた。
一式戦車砲から三式戦車砲に換装した際上述の通り機動性が低下しただけでなく足回りも悪化してしまった。また、本車両の運用には工兵の支援が必要不可欠であるが国軍の工兵は貧弱であり工作機械も不足しがちであったため国軍の運用限界重量を超える可能性があった。
とはいえこれまでの九〇式野砲搭載の車両であるホニⅠ・Ⅲは固定戦闘室であり装甲板も前方と側面の一部しか覆っていなかった。しかし本車からは全周旋回密閉式戦闘室を採用してあるため攻防力が格段に向上し本車両は本土決戦における対戦車戦闘の要として大いに期待されていた。
完成した車両は戦争末期であったため本土決戦に備えて温存され実戦に参加する機会は無かった。
攻撃力
資料によってバラツキが大きいが米軍の資料や日本軍側(?)を平均すると、100mで90~92㎜
500mで82㎜前後、1000mで70㎜弱の垂直装甲板を貫通できる程度の物だったと思われる。
(一式徹甲弾使用時)
余談
また211台目から四式中戦車の砲塔に換装あるいは砲だけを改造して換装するという計画があった。しかし試験では特に問題はなかったというが、換装による1.2tの重量増加による機動力低下に足回りの更なる悪化や運用限界重量の超過等様々な問題点から実際に使いモンになったかは不明。
貫通性能は昭和18年度では1000mで75㎜、翌年の19年度では1000mで100㎜貫通を狙っていた。具体的な貫通性能は不明である。
45年5月に発行された戦車用法によると数値上は1000mで撃破できるという想定だった。また、ほぼ同時期の資料には砲塔正面85㎜ 防盾39+85㎜ 車体正面51~65㎜という想定であり近衛第三師団調整資料によると貫通力90㎜の成形炸薬弾では砲塔の一部を除きすべての個所を貫通可とし貫通力100㎜の物ならば全て貫通可としているため少なくとも砲塔正面は、85㎜~100㎜以上の、車体正面は90㎜以上の垂直装甲板に匹敵すると考えていた可能性がある。