巷では『チヌ』または『チヌ車』と呼ばれることもが多いが、これは本車がまだ開発段階だった頃の仮称である。
実際に使用する兵士たちからはこの名で呼ばれることはまずない。
開発前史
ノモンハン事件以前
陸軍で運用していた九七式中戦車(以下チハ車)や九五式軽戦車は戦車の役割は
歩兵支援という開発当時の世相から歩兵支援を重視し対戦車戦闘に対しては対戦車砲などの対戦車兵器の役目であるとし戦車による対戦車戦は補助的な扱いであった。
ただし、当時の陸軍は戦車同士の戦闘が今後増加するであろうという予想自体は立てており
九七式中戦車の後継になる(・・・はずだった)試製九八式中戦車(以下チホ車)には対戦車戦闘を重視した長砲身47mm砲を搭載する予定あり更にチハ車より車体を簡易化させ生産性の向上を図るものだった。
ノモンハン事件後・・・そしてチヘ車開発へ
しかしノモンハン事件などのソ連との国境紛争における戦車戦を通して所詮はチハ車の劣化版でしかないチホ車の開発は没になり、ノモンハン事件の戦訓を取り入れかつ性能を重視したチヘ車(後の一式中戦車)の開発を進めていくことになる。
具体的な内容としては装甲の強化や主砲の強化は当然として素早く動き回るソ連戦車に追撃できるよう高出力エンジンを搭載、チハ車で問題のあった変速装置の油圧サーボ導入による改良(後に歩兵との近接戦闘を考慮して主砲同軸機銃搭載)などが盛り込まれこのまま問題がなければチハ車の後継車両の後継車両として開発が完了するはずだった。
・・・そう、はずだった。
チヘ車開発の躓きと妥協
チヘ車の試作車は41年頃には完成していたものの油圧サーボの開発がどうしても満足のいくものがなできずにいた。
おまけに当時は米国・中国との戦争勃発により航空機・艦船・火砲の増産が優先されていた時期であったため、機甲兵器はそのしわ寄せを受け開発生産の予算・資材は少なく制限されており開発は思うように進まず、完成の見通しもないため47mm砲を搭載した新砲塔・九七式中戦車(以下チハ改)が
急遽開発・生産されることとなる。
そしてさらに時間が経過、気が付けば43年。戦況は悪化し資材も切迫していたためチヘ車に導入予定だった新機軸導入の一部を諦め先に開発が完了していた二式砲戦車(以下ホイ車)の車体に以前開発されていたチハ改の砲塔を更に改造したものを搭載するという妥協案を採用することで形だけは完成させた(これ以前のチヘ車を「チヘ(原案)」として区別する。)部隊配備・整備がかなったのは敗戦濃厚となった44年の頃である。
三式中戦車開発へ
やっとのこさ完成させたチヘ車であったが、当然ながら恐竜的進化を遂げた連合軍戦車に対してあまりにも力不足であり、チヘ車の後継にもあたるチト車・チリ車(後の四式中戦車/五式中戦車)の開発状況といえば、完成・量産・は夢のまた夢と言っても過言ではないというものであった。
そこで、チト車/チリ車量産までのつなぎおよびチヘ車の火力強化案として三式中戦車(以下チヌ車)の開発がスタートすることとなる。
開発
車体・砲塔
まず車体は、チヘ車の母体となったホイ車の車体を使用した。これは砲戦車(火力支援車両)用として一から新規開発しチハ車の大口径砲搭載で問題になった容積不足と車体強度不足、エンジンの低性能ぶりなどの欠点を解消した車体であった。チヘ(原案)とは違い既存の技術のみを使用した保守的な車体であり未経験同然の新機軸は採用しなかったおかげでチヘ(原案)より早く完成した。
(なおチハ車の強化・進化が目的ではないためチハ系列車両ではない。)
ただ、このホイ車体はそのまま流用したわけではなく武装強化やそれによる重量増を考慮して戦車の命ともいえる足回りを履帯(キャタピラ)の幅を広いものへの換装やサスペンションの強化、大型砲塔を収められるよう砲塔リングの拡大などの改造が施された。
砲塔は、先述のチリ車に搭載される予定だったが設計変更によりボツ案なったものが選ばれた。この砲塔は元々75mm砲を載せるために設計されたため後述の三式戦車砲Ⅱ型や五式戦車砲Ⅱ型を
難なく搭載することができた。
武装
主砲は三式戦車砲Ⅱ型が採用された。この砲は野砲として優秀だが重量が重いことが欠点だった九〇式野砲を車載化・自走砲化させて有効活用を目指した一式砲戦車(以下ホニ車)及び
ホニ車を対戦車戦闘用に改造した三式砲戦車(ホニⅢ)の主砲を更に小改良を施したものである。 この砲が選ばれた理由としては車載化された砲の中で試作を除けば最も威力があり、砲の生産設備が整っている事であろう。
この案の他に長砲身57mm砲や九五式野砲搭載案があったが、前者は威力と数の問題から早期に立ち消え、後者は重量の軽さからホニ車主砲搭載案と争ったが結局性能が重視され結局採用されることはなかった。欠点としては砲の撃発(発射)装置が紐を引っ張る形式のものであるため発射のタイミングをとることに難があるが早期戦力化のため改善は見送られた。
また本砲搭載により速度がホイ車の44km/hから38.8km/hに低下したが実用上は問題なく連合軍主力戦車であるM4中戦車と大差ない数値であった。
三式戦車砲Ⅱ型の対戦車火力は均質圧延装甲板(以下RHA)に対し垂直に命中した場合、
1000mで約70mm貫通できた。これはだいたいチハ改・チヘ車の47mm砲の5~200mの近距離に想定する貫通力である。別の距離では同条件で500mで約80mm、200mで約90mm貫通できた。
弾種は炸薬入りの一式徹甲弾や一式徹甲弾を簡略化し無炸薬した四式徹甲弾、九〇式野砲と共用の九五式榴弾などがある。
陸軍上層部の評価としては「M4中戦車の600mの距離で正面を貫き得るがその公算は僅少にして側背面を攻撃することを要す」としていたり「(三式戦車砲Ⅱ型の母体になった)九〇式野砲はM4戦車に対し極めて有利なり」としていたりと安定していない。ちなみに陸軍はM4中戦車の装甲板は、RHAより強度が劣る鋳造製の鋼板であると想定していたようである。
また、チヌ車の火力強化案として後期生産型にはチト車/チリ車の主砲である五式七糎半戦車砲が搭載される予定でありこれは単純な火力強化だけでなく撃発装置の問題点の改善や後座長の減少など砲の操作性の向上も見込めるメリットがあった。デメリットとして更なる重量増による後方支援部隊や足回りへの負担の増加であり運用に支障が出る可能性が高かった。
こちらの対戦車能力は、RHA(?)ならば1000mにおいて約100mm 鋳鋼ならば140mm可能としており
「1000mでM4中戦車の正面を貫き得るも命中角の関係上その公算は僅少にして側背面を攻撃するを要す」とし別の資料では「M4の車体正面に対し効能を得られるのは5〜300m以内」としている。
副武装として機銃を車体正面に一丁搭載、車内に一丁、計二丁搭載しておりこれまでの陸軍戦車伝統であった砲塔後部の機銃は廃され、即応弾を積む弾薬庫になった。
装甲
従来の陸軍戦車は第二種鋼板と呼ばれる一種の表面硬化装甲板が採用されていたが本車両は
強度や生産性を改善した第三種鋼板(こちらも表面硬化装甲の一種)が採用された。
(RHAとの違いは割愛。)小説家司馬遼太郎が言うような軟鉄で作られたわけではないし
某書籍で軟鉄であることの根拠を挙げた著者の宮崎駿氏も同書のあとがきでは、
「資料的価値はありません」と断言していたりする。
・・・まぁ、なんにせよM4の75mm砲徹甲弾は防げないんですけどねー
とはいえ、小火器や榴弾の破片、米軍が歩兵砲としても使用した37mm対戦車砲や(75〜105mm級)軽野砲の榴弾の直撃を1000m以内で防げる公算が高かったのは利点としては見逃せない点ではある。
使い方
本車両は44年に55両、45年に111両生産され、中戦車部隊ではなく砲戦車(火力支援車両)部隊に配備された。使い方は最初は主力部隊の後方に配置・待機し先鋒部隊が敵部隊の足止めをしてる間に出撃、逆襲し敵部隊を水際に追いやる作戦が想定され他には敵戦車に対する装甲・火力不足を考慮して従来の陸軍戦車(チハ改)と同じく対戦車自走砲的な待ち伏せ戦法も想定していたと思われる。
その他
想定していた敵戦車の性能所元の一例とか
- M4中戦車 重量:31~2t
- 最高速度(路上?):35〜40km/h 主武装:40口径75mm砲
- 副武装:12.7mm高射機銃1丁 7.7mm機銃2丁
- 装甲
- 砲塔正面:85mm(垂直または水平に対し65°傾斜)/防盾:85mm+39mm(曲面)/
- 砲塔側面:65mm(水平に対し10°傾斜)/砲塔後面60mm(垂直?)/
- 車体正面上部:65mm(水平に対し35°傾斜)/車体正面下部:55mm(車体上部と同じ)/
- 車体側面:44mm(垂直)/後面39mm〜30mm(垂直)
登場作品
- うる星やつら(アニメ版のみ?)
- ガールズ&パンツァー
アニメ版で度井仲署に配備されている。
「bis」で追加されたステージ「串良」に登場。本車を用いて鹿児島県串良町に迫るM4シャーマン、M26パーシングを迎撃するミッションであり、作中屈指の難易度を誇る。
友軍として一式中戦車も登場する。
ある作家による風評被害(?)
上記のような経歴から、日本陸軍の戦車戦・対戦車戦はもとより戦術ドクトリンそのものや兵站まで含めた旧日本軍の‘迷走’を批判・揶揄するには格好の題材らしく、戦後間もなくからこの種の議論のやり玉にあげられることもあった。
(戦艦大和は…まあ、レジェンドというか『軍神』になっちゃいましたからねエ)
だが、その内容の一部は特に根拠が示されず謂れのない風評被害となった事例もある。
有名なものは、前項にもある司馬遼太郎の著書『歴史と視点―私の雑記帖』での「実体験」とされるエピソードであろう。
本土の宇都宮にて本土決戦の準備に明け暮れていた戦争末期、司馬の所属部隊にただ1両だけ配備された三式中戦車を見て、旧型の九七式中戦車の装甲はやすりが通らないくらい硬かったがどうだろうかと思い立ち、最新型であった三式中戦車の装甲をやすり掛けしてみたら普通に削れて紙装甲の九七式より脆いのかと絶句したとされるもの。
…が、後々になって関係者や研究者らが丹念に調べ直してみたら、実際は前々型の九七式のネックであった装甲が割れやすいという欠点を補う為に均質圧延鋼という柔軟性の高い鋼材を使用していたがゆえの仕様であったことが証明されて、別にそのこと自体には三式の防御力が皆無であることの証明にはなっていない。
(日本海軍が船団護衛に関してはド無能だったせいで、戦争末期には各種物質がドカ貧レベルに払底していたのは事実だけどネ。)
というよりも、司馬の国粋主義と旧日本軍批判ありきの視点と乃木希典批判における虚偽織り交ぜの手法などから専門家からでさえも「この逸話自体が司馬がでっち上げたフィクションなんじゃねえの!?」という声もある。
当の司馬も、このことに関連した事を突っつかれた際には「私は小説家ですよ。歴史研究家ではありません」と返答したとされる。
この他にも、この話の再反論として「当時、戦車工場に務めていた人物が、例の反論に対して編集部に本当にただの鉄を使用していたという旨の手紙が送られていた。」というエピソードが持ち出されるが、曖昧な点が多く信憑性か低い。というのもこの話の元ネタは宮崎駿と独軍戦車研究家の冨岡吉勝氏の対談なのだが、冨岡氏は手紙を拝見したり、手紙の話が事実か確認したりしたわけではなく、ただそのような話を聞いたことがあるというだけで、ほとんど噂の域を出ない。
余談だが、三式中戦車の誕生から50年近く経った1990年(平成2年)に就役した90式戦車はかつての国産戦車の惨状がウソであったかのように列強の主力戦車に匹敵する高レベルを誇り、特に装甲をガチガチに固めることで特異さをもっていたが、
リベラル気質で名高い某フィクション作家が自身の著作にて「愛国業ってのはよっぽど儲かる商売らしいな」という名台詞とともに『川底の石にぶつかったら車体底面装甲が破れる』といった嘘八百をややこしい言い回しで書き連ねて風評被害を引き起こしている。もっともこっちは制式化前で「89式戦車(仮称)」だったころの話であり、仮称を頼りに90式(架空)にしたらドン被りしてしまったという事情もあるらしいが。