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フリードリヒ2世

ふりーどりひにせい

ドイツ圏において複数名存在した王侯君主の名前。 ここでは画像の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世を中心に紹介する。
目次 [非表示]

神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世

1194年生~1250年没

神聖ローマ皇帝(在位1220年~1250年)

シチリア王(在位1198年~1250年)

ローマ(ドイツ)王(在位1212年~1220年)


イタリア風にはフェデリーコ2世と呼称する。


生い立ち


ホーエンシュタフェン家の神聖ローマ皇帝兼シチリア王であるハインリヒ6世をとし、シチリア王国の王女であるコンスタンツェをとする。


幼年の内に両親を亡くし神聖ローマ皇帝の地位は叔父であるシュヴァーペン公フィリップとヴェルフ家のオットーで争われた為に母の実家筋にあたるシチリア王としてシチリア島にて少年時代を過ごす事になり、キリスト教を中心としたヨーロッパ文化とイスラム文化が融合したシチリア島という特異な地にて数多くの学問を学ぶことになる。


1212年に神聖ローマ皇帝となっていたオットー4世の失墜によりフリードリヒ2世が新たに皇帝に即位する事になり、この時に教皇十字軍遠征を約束した。フリードリヒ2世はドイツの統治を息子のハインリヒ7世に任せる形となり、自身はシチリア島のパレルモに宮廷を置き戦乱で衰退したシチリアの復興に力を注いだ。


十字軍遠征


教皇との約束であった十字軍遠征は中々果たせず、1228年に軍を率いてエルサレムに向かうも途中で病気により帰還した事で教皇の怒りを買い破門される等教皇側との対立は次第に深まっていった。それでも破門の状態にて再びエルサレムへと出発し、アイユーブ朝のスルタンアル・カーミルとの会見にて平和理にエルサレムを得るという功績を挙げた(第6回十字軍)。


この時にエルサレム王に即位しているが、破門されたフリードリヒに対する教皇らの反発は強かった。


皇帝派と教皇派


帰国後は教皇側との戦いに費やされる事になり、イタリア半島における諸都市・諸侯らは皇帝派(ギベリン)と教皇派(ゲルフ)に分かれて争う事になり、教皇派に属するイタリア諸都市はロンバルディア同盟としてフリードリヒに抵抗しドイツ王であった息子のハインリヒ7世も教皇派として父に対抗した。


両派の争いはフリードリヒ2世の存命時には決着がつかず1250年12月13日に病死した。


学芸の保護者として


  • 幼少の頃からラテン語を習得し難しい学術書を読破していた。また他にもアラビア語など6カ国語を自在に話す事ができた。

  • 宮廷には天文学者に占星術師や数学者等の数多くの文化人が集まり、中にはユダヤ人やイスラム系の学者も加わっていた。

  • 異国の動物を集めた動物園を持っており、趣味である鷹狩に関しても著作を残している。

  • 19世紀のスイスの歴史家ヤーコプ・ブルクハルトはフリードリヒ2世を「王座上の最初の近代人」と評している。

関連人物

血縁関係

  • コンスタンサ(1179年~1222年)

最初の皇后。

イベリアのアラゴン王アルフォンソ2世の娘で当初はハンガリー王イムレ1世の妃であったが、その死後の1209年にフリードリヒ2世と再婚した。

間に生まれた子はハインリヒ7世のみ。

  • イザベル2世(1212年~1228年)

二番目の皇后。エルサレム女王。

コンラート4世を産むと引き換えに亡くなった。

  • イザベラ・オブ・イングランド(1214年~1241年)

三番目の皇后。

イングランド王ジョンの娘で1235年に結婚した。

  • ビアンカ・ランチア(1200年~1246年)

愛人。

イタリア貴族ランチア家の出身でシチリア王マンフレーディらを産む。

美貌でフリードリヒ2世の最愛の人だとされる。

  • ハインリヒ7世(1211年~1241年)

長男。

嫡男として幼少の頃よりローマ王としてドイツにて育ち、現地の統治を担う役割であったが次第に父に反感を募らせるようになり1234年に教皇派の諸都市であるロンバルディア同盟と手を結び反乱を起こすが翌年に鎮圧されて廃嫡され、幽閉の末に1241年に自殺した。

  • コンラート4世(1228年~1254年)

エルサレム女王イザベル2世との子。

母が自身の誕生の際に死去した事でエルサレム王となり兄であるハインリヒ7世の廃嫡により後継者に定められて父の死後に神聖ローマ皇帝となるが若くして亡くなった。

  • エンツォ(1216年~1272年)

フリードリヒ2世の庶子。

サルデーニャ王となり父の腹心の一人として教皇派勢力と戦ったが1249年に教皇派であるボローニャ市の捕虜となりそのまま獄中にて死去した。

  • マンフレーディ(1232年~1266年)

フリードリヒ2世の庶子。

シチリア王となり教皇派勢力に対抗したが1266年のベネヴェントの戦いでシチリア王を狙うフランス王弟シャルルに敗れ戦死した。

家臣・協力者・文化人

  • ベラルド(1177年~1252年)

シチリアの首都・パレルモの大司教。

フリードリヒ2世の若い頃からの側近で国内統治の補佐を始め「カプア憲章」「メルフィ憲章」の制定や各勢力との折衝、ナポリ大学の創立といった事業に大きく関わった。数度破門されながらも終生フリードリヒ2世に従い、その最期を看取り終油の秘跡を与えた。

  • ピエール・デッラ・ヴィーニャ(1190年頃~1249年)

南イタリアの出身でボローニャ大学にて法律を学び、ベラルドの推挙にてフリードリヒ2世に仕える。「メルフィ憲章」の制定に関わった他、優れた文章家としても知られる。

フリードリヒ2世の治世末期の有力者であったが、1249年に反乱を疑われて逮捕され両目を潰された末に自殺した。

  • エッチェリーノ・ダ・ロマーノ(1194年~1259年)

イタリア貴族。

北イタリアの有力な皇帝派諸侯で教皇派との戦いに大きく活躍し、皇帝の庶出の王女を妻とした。

フリードリヒ2世死後に捕らえられて獄死した。

  • ヘルマン・フォン・ザルツァ(1165年~1239年)

ドイツ騎士団第4代総長。

ドイツ騎士団によるプロイセン方面の進出で知られるが、フリードリヒ2世の主要な側近としても活躍し教皇側との外交や第6回十字軍において功績を挙げている。

  • マイケル・スコット(1175年~1232年頃)

スコットランド出身の学者・占星術師。

1227年よりフリードリヒ2世に仕えている。

  • レオナルド・フィボナッチ(1170年頃~1250年頃)

ピサの商人出身の数学者。

北アフリカでアラビア数字を学び、「算盤の書」を書き残している。

度々フリードリヒ2世の宮廷に招聘されている。

その他のフリードリヒ2世

フリードリヒ2世(プロイセン王)

1712年~1786年

フリードリヒ大王として知られる。詳しくはフリードリヒ2世(プロイセン)を参照。

フリードリヒ2世(オーストリア公)

1211年~1246年

オーストリア公レオポルト6世の子で父の死により跡を継ぐ。喧嘩公と呼ばれる。

当時オーストリア公は神聖ローマ帝国に属しており神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世とは同時代の人物であるが関係性は悪かった。

1241年のモンゴル帝国によるハンガリー侵攻においてはどさくさに紛れてハンガリー方面等に勢力を拡大するもハンガリーの反感を買い、1246年のライタ川の戦いにてハンガリー軍に敗れて戦死し後継者が居なかった為に5代続いたバーベンベルク家のオーストリア支配は終焉した。


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ドイツ イタリア 皇帝

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