概要
生い立ち
高家(江戸幕府の儀礼などをつかさどる重職)旗本の吉良義冬の嫡子。母は酒井忠勝(小浜藩主)の弟・忠吉の娘。
寛永18年(1641年)9月2日、江戸鍛冶橋の吉良邸にて生まれる。
吉良氏は室町幕府を開いた足利氏一門にして、「御所が絶えれば吉良が継ぐ」と言われて将軍家が断絶した際の筆頭継承権を有するとされた名門である(鎌倉時代中期に足利氏の分家として成立し、西三河の吉良荘を本貫地として吉良姓を名乗ったのが始まり)。また、三河の旧国主と言っても過言ではない家柄として、後に徳川氏の母体となった三河の新興勢力たる松平氏とも深い縁があり、徳川家康にしても三河統一戦の頃からの付き合いがあった。それ故に江戸幕府からも高家として重んじられていた。また、父・義冬の実母及び父方の祖母が今川家(今川家も源流を辿れば吉良氏の分家である)の出自で、今川義元・北条氏康・武田信虎の血を引いている。幼名は三郎、通称は左近。
明暦3年(1657年)12月27日、従四位下侍従兼上野介に叙任され、翌年の4月には上杉景勝の孫娘・富子(当時の米沢藩主・上杉綱勝の妹)と結婚し、米沢上杉家との血縁関係を築く。
名家の血を引き、東北の雄藩・上杉とも関係強化を果たした上野介は諸芸に秀でた若者に成人し、徳川家綱や後西天皇と言った公武の頂点に立つ御歴々に謁見するなど、高家御曹司としての才覚をいかんなく発揮した。
松の廊下
その後も上野介は自らの長男を上杉の養子にして御家断絶を防ぐなど人脈を作り、28歳で家督を相続して以降は朝廷への使者としての務めを果たし、優秀な実績を残す。貞享3年(1686年)、西尾藩と折衝も行った。だが、後世では後述の事件により、これらの行動すべてが裏目に出てしまう。
それは、元禄14年(1701年)3月14日午前10時過ぎの事である。以前から付き合いのあった播磨赤穂藩主・浅野長矩(3年前に吉良邸を襲った火事の消防指揮を執ったのが浅野)によって、勅使接待の指南役をしていた上野介は背後から斬り付けられたのである。背中と額に重傷を負った上野介は救出され、抜刀して暴れるという暴挙を起こした長矩は怒り狂った徳川綱吉の命令によって即日切腹、赤穂藩は取り潰しとなる。
この件について上野介は「拙者は恨まれることをした覚えはなく、浅野公の乱心でございましょう」と言った趣旨の発言をしている。
吉良邸討ち入り
松の廊下での事件後、上野介は高家肝煎の職を辞する届け出を3月26日に提出、8月13日には屋敷替えを拝命。12月11日、義央は隠居願いを提出し、孫の義周に家督を相続させた。その4日後、彼に運命の時が訪れる。大石内蔵助率いる赤穂四十七士が討ち入りをしてきたのである。吉良家に出入りし、上野介も師事した茶人に近づくなどして情報を察知した赤穂浪士は上野介を倒すべく邸内に乱入した。
上野介は義央の養子・吉良義周(義央の孫。綱憲の次男)や清水一学らの防戦の御蔭で炭小屋に隠れることができたが、間光興に槍で突き刺され、脇差を振り回して抵抗するも、武林隆重の剣に倒れた。享年62(満61歳)「霊性寺殿実山相公大居士」の戒名を与えられた。事件後、実父や実子の危機を見捨てるという恥辱に耐えた綱憲の上杉家は存続するも、義周は改易された上に配流先で死去し、高家としての吉良家は事実上滅亡した。
逸話
- 黄金堤を築いた治水の名君として愛知県では人気があり、吉良町では彼が乗った赤馬にちなんだ郷土玩具が存在する。ただし、この黄金堤の話は後世の創作の可能性が高く、高家はほとんど地方へ行くことはなかった。しかし、自国の殿様が敵の兇刃に倒れたことへの追悼の念や一方的に悪し様に言われ続けた事に対する逆判官贔屓により、数々の伝説を産んだとも言われる。また、息子を養子縁組させた山形県や出生地の一つとも伝わる群馬県にも彼にまつわる史跡は多い。
- 新田開発や塩田の整備も考慮していたとされ、赤穂との軋轢は塩の産地である赤穂藩に技術指導を依頼したら断られたことが一因ともされるが根拠は不明瞭である。近年では吉良の領域には塩田は存在しなかった事が明確になったため、俗説の域を出ないものとなった。
- 賄賂を要求する卑しいイメージが横行しているが、当時の賄賂は「まいない」と言って現代ほどマイナスのイメージはなく、高家への指南料として献上するものだったので、それを求めた上野介は当然のことをしただけだった。石高は4200しかないのに、家の格式は赤穂藩(石高5万・従五位下)どころか浅野本家の広島藩(石高42万・従四位下)より上位の従四位上であり、家格に見合った出費を要求されることを考慮すると、生計を立てる手段として必要不可欠であった。当時は物価上昇が著しい時代であるため、前回(松の廊下事件当時は長矩2度目の勅使接待役)と同じ指南料では吉良氏、というよりは高家全般の生計が成り立たず、トラブルになった可能性は高いかもしれない。
- 津和野藩主・亀井茲親が賄賂をケチったために嫌がらせをしたが、家臣がお菓子に小判を入れて詫びたらその機智を褒めて許したと言う「源氏巻」なる郷土菓子の逸話にも登場するが、創作の可能性が高い。
- 朝廷からも信任されている有能で博識な官僚であったことは確実だが、その手の英雄にありがちな敵の多さもまた事実であり、上杉家が援軍を出さなかったのは、金策に困っていた時に金食い虫の上野介(高家は物入りだった)を排斥するための口実説がある。また、朝廷からは抑圧的な幕府の手先として煙たがられ、将軍の側近なども吉良を滅ぼす算段を立てていたため、破滅させられたという陰謀論も存在する。
- 松の廊下で「額」と「背中」に傷を負ったという件は、赤穂浪士の講談等で吉良を悪玉とするために脚色され、額→背中の順で切られた「逃げ傷」であるとされた。実際の順番は不明なのだが、もし背中→額の場合は浅野が不意打ちしたことになる。それまでの武士道ではこの背中=逃げ傷という文化はあまり見られていない様なのだが、後の世の講談や刑罰などには背中の傷=不名誉というのが根付いていく。