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吉良上野介

きらこうずけのすけ

江戸時代中期の高家旗本。元禄赤穂事件の被害者である吉良義央の通名。本名よりこちらの通名の方でよく知られている。
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元禄赤穂事件で知られる江戸時代中期の高家旗本である吉良義央の通名。ちなみに上野介は義央が元服後、最初に任じられた官位。

概要編集

プロフィール編集

生没:寛永18年9月2日(1641年10月6日)〜元禄15年12月15日(1703年1月31日)


通称:三郎、左近

諱:義央

官位:従四位下侍従兼上野介、従四位上左近衛権少将


吉良氏とは編集

室町幕府を開いた足利氏の支流。鎌倉時代三河国幡豆郡吉良荘の地頭職を務めた足利義氏の庶長子・吉良長氏を祖とする。分家の今川氏は長氏の次男・国氏が幡豆郡今川庄を領し今川と称したことに始まる。両家とも元弘の乱以降、足利尊氏に従い室町幕府成立に功があった。そして吉良氏は今川氏と共に「御所が絶えれば吉良が継ぐ」と言われて将軍家が断絶した際の筆頭継承権を有することになる。戦国時代になると、駿河今川氏と違い戦国大名化は出来なかったものの三河の旧国主と言っても過言ではない家柄として、三河の新興勢力たる安祥松平氏(徳川家)とも深い縁を持った。戦国時代の当主である吉良義安は徳川家康と付き合いがあり、家康の三河統一戦に力を貸した。義安の後を継いだ義定は母が家康の父である松平広忠のきょうだいであり家康とは従兄弟同士だった。それ故に家康が江戸幕府を開いてからは今川家などと共に高家(有職故実を以て幕府の儀礼などをつかさどる重職)旗本として重んじられた。


生誕〜家督相続前編集

吉良義冬の嫡子として江戸鍛冶橋の吉良邸にて生まれる。母は酒井忠勝(小浜藩主)の弟・忠吉の娘。


明暦3年(1657年)12月27日、従四位下侍従兼上野介に叙任され、翌年の4月には米沢藩主上杉綱勝(定勝の嫡男)の妹・富子と結婚した。


父・義冬の実母及び父方の祖母が今川家の出自で義央自身も今川氏真早川殿の曾孫でもある。さらに高祖父には今川義元北条氏康松平清康がおり、高祖母も定恵院(武田信虎の長女、信玄の姉)と錚々たる面子である。富子との結婚で上杉謙信を祖とする名門・米沢上杉家とも関係強化を果たした義央は諸芸に秀でた若者に成人し、徳川家綱後西天皇と言った公武の頂点に立つ御歴々に謁見するなど、高家御曹司としての才覚をいかんなく発揮した。


寛文4年(1664年)、義兄・綱勝が嗣子を残せず急死したため上杉景勝以来の血統が絶えた米沢藩は無嗣改易の危機に陥る。そして綱勝の岳父である保科正之の斡旋を受け、義央の長男・三之助が上杉定勝の外孫であることから上杉家の養子となった。三之助は上杉綱憲を名乗り家督を継承し(石高は半減したが)改易を防いだ。


家督相続後〜松の廊下編集

寛文8年(1665年)、父の逝去に伴い28歳で家督を相続。以降は朝廷への使者としての務めを果たし、優秀な実績を残す。貞享3年(1686年)には領地が隣接していた西尾藩主・土井利意(春日局の実孫)と領地の境界線をめぐって争った。後世では後述の事件により、これらの行動すべてが裏目に出てしまう。


それは、元禄14年(1701年)3月14日午前10時過ぎの事である。播磨赤穂藩主・浅野長矩は3年前に吉良邸を襲った火事の消防指揮を執って以来の付き合いがあった人物だったが、勅使接待の指南役をしていた義央は背後から斬り付けられたのである。背中と額に重傷を負った義央は救出され、抜刀して暴れるという暴挙を起こした長矩は怒り狂った徳川綱吉の命令によって即日切腹、赤穂藩は取り潰しとなる。


この件について義央は「拙者は恨まれることをした覚えはなく、浅野公の乱心でございましょう」と言った趣旨の発言をしている。


吉良邸討ち入り編集

松の廊下での事件後、義央は高家肝煎の職を辞する届け出を3月26日に提出、8月13日には屋敷替えを拝命。12月11日、義央は隠居願いを提出し、孫の義周(綱憲の次男)に家督を相続させた。その4日後、彼に運命の時が訪れる。大石内蔵助率いる赤穂四十七士が討ち入りをしてきたのである。吉良家に出入りし、義央も師事した茶人に近づくなどして情報を察知した赤穂浪士は義央を倒すべく邸内に乱入した。


義央は養子・義周や清水一学らの防戦の御蔭で炭小屋に隠れることができたが、間光興に槍で突き刺され脇差を振り回して抵抗するも、武林隆重の剣に倒れた。享年62(満61歳)。死後、「霊性寺殿実山相公大居士」の戒名を与えられた。事件後、実父や実子の危機を見捨てるという恥辱に耐えた綱憲の上杉家は存続するも、義周は改易された上に配流先で死去し、高家としての吉良家は事実上滅亡した。


逸話編集

  • 黄金堤を築いた治水の名君として愛知県では人気があり、吉良町では彼が乗った赤馬にちなんだ郷土玩具が存在する。ただし、この黄金堤の話は後世の創作の可能性が高く、高家はほとんど地方へ行くことはなかった。しかし、自国の殿様が敵の兇刃に倒れたことへの追悼の念や一方的に悪し様に言われ続けた事に対する逆判官贔屓により、数々の伝説を産んだとも言われる。また、長男の養子縁組先である山形県米沢市や吉良家の所領があり出生地の一つとも伝わる群馬県にも彼にまつわる史跡は多い。

  • 新田開発や塩田の整備も考慮していたとされ、赤穂との軋轢は塩の産地である赤穂藩に技術指導を依頼したら断られたことが一因ともされるが根拠は不明瞭である。近年では吉良の領域には塩田は存在しなかった事が明確になったため、俗説の域を出ないものとなった。

  • 賄賂を要求する卑しいイメージが横行しているが、当時の賄賂は「まいない」と言って現代ほどマイナスのイメージはなく、高家への指南料として献上するものだったので、それを求めた義央は当然のことをしただけだった。吉良家の所領は4,200石しかないのに、家の格式は赤穂浅野家(5万石・従五位下)の本家の芸州浅野家(42万石・従四位下)より上位の従四位上でありこれは薩摩島津家(77万石)や仙台伊達家(62万石)と同格だった。家格に見合った出費を要求されることを考慮すると、生計を立てる手段として必要不可欠であった。当時は物価上昇が著しい時代であるため、前回(松の廊下事件当時は長矩は2度目の勅使接待役)と同じ指南料では吉良氏、というよりは高家全般の生計が成り立たず、トラブルになった可能性は高いかもしれない。

  • 石見津和野藩主・亀井茲親が賄賂をケチったために嫌がらせをしたが、家臣がお菓子に小判を入れて詫びたらその機智を褒めて許したと言う「源氏巻」なる郷土菓子の逸話にも登場するが、創作の可能性が高い。

  • 朝廷からも信任されている有能で博識な官僚であったことは確実だが、敵を作りやすい面があったことは確かなようである。上杉家が援軍を出さなかったのは、金策に困っていた時に金食い虫の義央(高家は物入りだった)を排斥するための口実説がある。また、朝廷からは抑圧的な幕府の手先として煙たがられ、将軍の側近なども義央を煙たがって滅ぼす算段を立てていたため、破滅させられたという陰謀論も存在している。

  • 松の廊下で「額」と「背中」に傷を負ったという件は、赤穂浪士の講談等で吉良を悪玉とするために脚色され、額→背中の順で切られた「逃げ傷」であるとされた。実際の順番は不明なのだが、もし背中→額の場合は浅野が不意打ちしたことになる。それまでの武士道ではこの背中=逃げ傷という文化はあまり見られていない様なのだが、後の世の講談や刑罰などには背中の傷=不名誉というのが根付いていく。

余談編集

畠山義就山内一豊などと同じく近年、諱の読みが変わっている歴史上の人物の一人である。義央の読みは長らく「よしなか」と読まれてきたが実際は「よしひろ」が正しいとされている。


関連タグ編集

江戸時代 元禄赤穂事件 赤穂浪士

石坂浩二宅麻伸滝沢秀明:1999年のNHK大河ドラマ元禄繚乱」における義央、綱憲、義周役。

森繁久彌、八代目中村芝翫:1985年の日本テレビ年末時代劇「忠臣蔵」における義央と綱憲役。

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