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小山伸一郎

こやましんいちろう

中日ドラゴンズ、東北楽天ゴールデンイーグルスに所属した元プロ野球選手(投手、イラスト中央)。
目次 [非表示]

概要

三重県出身。明野高時代はエースとしてチームを3年夏に県大会決勝まで導いた。140km/hを超す速球がスカウト陣の目に留まり、1996年ドラフト1位で中日ドラゴンズに指名され入団。同期には森野将彦らがいる。


一軍デビューはプロ3年目の1999年。二軍では抑えを務めていた。

その後も二軍では2001年にウエスタン・リーグ最多勝、2002年2003年には2年連続で最優秀救援投手賞を受賞しながらも、一軍では安定した結果を残せなかった。

2004年オフに無償トレードで東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍。


東北楽天移籍1年目の2005年は球団史上初の救援勝利を記録。5月下旬には二軍降格されたが、それまでは当時自己最多となる30試合に登板していた。

2006年は防御率8.56と前年から大幅に悪化してしまう。それでも2007年には交流戦頃に一軍昇格し、ケガで戦線離脱した福盛和男の後を受けてクローザーを務める。最終的に16セーブを挙げて防御率は0.58と劇的に成長を遂げたシーズンとなった。

2008年は序盤不安定な投球が続いたものの、徐々に安定感を取り戻し自己最多54試合に登板。以降、2012年シーズンまで5年連続でシーズン50登板を果たしている。

2009年はチーム最多の56試合、2010年はこれまたチーム最多となる55試合に登板。2010年途中からは青山浩二片山博視とともにスリーマウンテンズと呼ばれた強力リリーフ陣を形成した。

2011年田中将大に次ぐチーム2位の8勝を挙げる。

2012年からは開幕からセットアッパーとしてフル回転。防御率も1.99と抜群の安定感を見せた。同年オフの山村宏樹の引退、有銘兼久の戦力外で、球団創設時メンバー唯一の生き残りの投手となった。

2013年は内容が不安定ながらも優勝に貢献。しかし、次第に打ち込まれる場面が年々目立つようになり、さらに右肩を手術したこともあり出番は減っていった。2015年9月に引退を表明し、10月6日千葉ロッテマリーンズ戦で永井怜と共に引退登板を行った。


2016年には同球団の二軍投手コーチを務めていたが、絶不調に陥った一軍の救援陣を立て直すため一軍投手コーチに異動した(この間投手コーチは一軍3人、二軍1人だった)。2017年は二軍投手コーチに戻り、2020年からは再び一軍投手コーチとなった。


プレースタイル

コンパクトなスリークォーターのフォームから投げ込む速球とスライダー、140km/h以上の球速で曲がりながら落ちる高速シンカーを武器とする。


特にシンカー(自己申告)は一般的なシンカーと明らかに異なる変化をするため、解説者によって様々な見解が生まれ、ネット上では「謎球」「魔球ナンカー(謎のシンカーの略)」などと呼ばれた。

後にコーチとして指導した涌井秀章に伝授され、涌井は小山への敬意を込めて「こやシン(小山さんのシンカー)」という名前をプッシュしている。


人物

  • 登板時にはゴーグルを使用する。
  • あだ名は半袖魔神。春先の寒い時期でも一人半袖ユニフォームを着用している。長袖シャツに切り替えたところ、打ち込まれてすぐ半袖に戻したこともあった。
    • なお、このあだ名は東北楽天の公式ページやスポーツニュースサイトでもよく使われている。
  • プロ野球界随一のサッカー通。一部スポーツ紙では小山の論評が記事になることもある。

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