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蒲生氏郷の編集履歴

2011-01-26 20:45:40 バージョン

蒲生氏郷

戦国時代に現在の滋賀にいた戦国武将


生涯

弘治2年(1556)、六角氏に仕える蒲生賢秀の三男(嫡男)・鶴千代として生まれた。

永禄11年(1568)、六角義賢が上洛を目指す織田信長に倒され、賢秀は信長に臣従し、鶴千代は人質として岐阜に送られた。鶴千代と対面した信長は「目付常ならず、只者にては有るべからず」と述べ、の冬姫と許婚に決めたほど気に入ったという。

元服して「忠三郎賦秀」と名乗り、伊勢姉川長篠などの合戦に従軍。本能寺の変後は豊臣秀吉に仕え、小牧・長久手、九州小田原などの合戦に参陣。天正16年(1588)、伊勢(三重)に松坂を築城し居城とした。この前後に名を「氏郷」に改めた。

信長とともに秀吉も氏郷の才能を認めていたが、逆にその実力を恐れていた。天正18年(1590)、東北伊達政宗を監視する理由で会津へ加増移封された。政宗と対立しながらも、商人や職人を集めて殖産興業を伸ばし、街作りに務めた。

文禄元年(1592)、朝鮮出兵のため名護屋まで出陣したが体調を崩し、文禄4年2月7日(1595)に京都伏見で亡くなった。享年40歳。政宗や石田三成直江兼続などによる毒殺説もあるが、実際は直腸か膵臓の癌による病死とされている。

この後、蒲生家は宇都宮へ、会津には上杉景勝が移つされた。

人物

茶道に興味を示し、千利休の高弟の一人に数えられた。同じ利休の高弟であったキリスタン大名の高山右近と親交があり、この事でキリスト教に帰依し、洗礼名「レオン」を持っていた。

話好きで、怪談や武辺談話を好んだという。家臣を大事にしていたが、気に入った家臣に蒲生姓をやたら与えていたため、家中に蒲生姓の家臣が乱発していた。

戦場ではナマズの尾を形をした長いを被ったと言われ、自ら戦陣に立って活躍したという。

関連イラスト

蒲生さんの暑中お見舞い 夏なので蒲生さん

関連タグ

日本史 戦国 殿といっしょ

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