明治37年~38年、大日本帝国とロシア帝国が朝鮮半島と満洲を主戦場にした戦争。
満洲侵攻の機会を狙っていたロシアは、北清事変に乗じて満洲を事実上占領し、しかも清国と露清密約を結んで南下する気配を示した。このようなロシアの勢力拡張を脅威と感じた日本は、明治35年1月にイギリスと日英同盟協約を結び、これを後ろ盾として、ロシアに満洲からの撤兵を強く迫った。
そのためロシアは、いったんは清国と満洲還付協定(明治35年4月)を結んだが、これを実行せず、かえって韓国(明治30年に朝鮮は国号を韓国と改めた)の領土内に軍事基地を建設し始めた。そこで、もし韓国がロシアの勢力圏内に入れば重大な脅威になると考えた日本政府は、満洲におけるロシアの自由行動を認めるかわりに、韓国からロシアの勢力を排除するという方針を固めて、36年8月から約6ヶ月にわたって粘り強くロシアと交渉したのである。
しかし、この交渉は実を結ばず、日本は37年2月、元老と政府・軍部首脳が御前会議を開いて対露開戦を決定した。
日本海軍の旅順攻撃と陸軍部隊の仁川上陸によって、日露戦争が始まったのである。
世界最強の陸軍国ロシアとの戦争は、文字どおり日本の国家と国民の運命をかけた戦いであった。
強国ロシアとの戦争がきわめて苦しい展開になるであろうことを予想した政府は、まず日本銀行総裁の高橋是清をイギリスに派遣して、巨額の戦費にあてるための外国債を募集し(これについては後述)、また金子堅太郎をアメリカに派遣して、大統領セオドア・ルーズヴェルトに和平の仲介を打診している。
ロシアの東洋艦隊は、北欧から地中海・インド洋を回って来るバルチック艦隊の到着をまって日本海軍との決戦にのぞもうと図り、旅順港から出ようとしなかった。それに対して日本の海軍は、バルチック艦隊の到着前に東洋艦隊を撃破するため、コンクリートで固め機関銃で武装した東洋最大の要塞・旅順を早く攻略するよう、陸軍に督促した。
その大任にあたったのが乃木希典大将の率いる第三軍で、のべ155日、5万9千人の死傷者を出して、ようやく明治38年の元日に陥落させた。日露戦争を通しても甚大な被害であるが、これは陸軍参謀本部が旅順に立て篭もるロシア軍を約3万と予測していたため、倍の6万の兵力を持つ第三軍の突撃戦術で制圧できるだろうと思っていたためである。しかし実際の旅順には陸軍・海軍併せて約6万6千。その他の兵員を入れると7万3千にもなる大軍を配備していたため、突撃で押し寄せても物量で押しつぶされるという状態が多々起き、戦闘の泥沼化がおきてしまったためである。乃木大将と敵将ステッセルの会見場となったのが「水師営」で、この時乃木大将は、敗将ステッセルに礼を尽くして帯剣を許し、両将が互いに勇猛さをたたえあったという。
日本軍とロシア軍が激突したのは、明治38年3月の奉天会戦が最も大きい。
旅順を陥落させた乃木第三軍が北上して、戦線に加わることを恐れたクロパトキン将軍は、1月下旬、全軍に攻撃命令を発した。それに対して満洲軍総司令官の大山巌は、敵の機先を制するために奉天総攻撃を敢行しようという児玉源太郎参謀総長の進言を容れ、全軍に攻撃命令を伝えた。
日本軍の配置は、黒木為楨大将の第一軍がロシア軍左翼、野津道貫大将の第四軍が正面、奥保鞏大将の第二軍がロシア軍右翼に相対するというもので、乃木大将の第三軍は、敵の右側面を迂回してクロパトキン軍にせまるという任務を与えられた。
ロシア軍36万に対して約25万の日本軍は、弾丸の不足にも悩み、各地で苦戦に陥った。そこで総司令部は、旅順で傷つき補充も十分でない第三軍に対して、ロシア軍右翼への突入を命じた。この作戦で第三軍は多大な犠牲を出したが、クロパトキンが乃木第三軍を恐れて退却を開始したので、日本軍はようやく戦闘に勝利することができた。しかし、敵を追撃して完全な勝利を収めるだけの余力は残っていなかった。
明治38年5月27日早朝、連合艦隊司令長官東郷平八郎は、大本営に対して「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハ直ニ出動シ、之ヲ撃滅セントス。本日、天気晴朗ナレドモ浪高シ」という有名な打電を発し、全艦に出撃を命じた。午後1時55分、対馬沖の海上にバルチック艦隊を発見すると、戦艦三笠のマストにZ旗が翻った。「皇国ノ荒廃、此ノ一戦ニアリ、各員一層奮励努力セヨ」の信号である。
連合艦隊は、敵の砲弾が着弾するぎりぎりのところで、意外な敵前大回頭を行い、敵艦隊の行方を遮る陣形をとった。いわゆる「丁字戦法」である。日本の艦隊は全ての面でロシア艦隊を圧倒し、特に砲弾の命中率は10対1だったという。そのために、バルチック艦隊38隻は、かろうじてウラジオストックへ逃げ込んだ数隻を除いて、この対馬沖で全滅した。
この時点で日本は開戦前の単年度国家予算の7倍以上という莫大な戦費を費やしており、ロシアは支配下の民族独立運動や、国内での革命運動による政情不安が政府を揺るがし、両国ともこれ以上の戦争継続は困難となった。この時点でアメリカ合衆国の仲介が入り、両国はポーツマス講和条約を結び、朝鮮・満州の日本の権益確保が確定した。
日露戦争における日本の勝利は、有色人種が近代戦において白人に打ち勝つことが出来ることを示し、ロシア帝国の圧迫を蒙っていたユーラシアの諸民族を喜ばせ、欧米列強の植民地化の脅威に晒されていたアジア各国は希望を感じるなど、世界に衝撃を与えた。日本は欧米列強にも一目置かれる近代的国家に脱皮し、明治44年には明治政府発足以来の悲願であった不平等条約の改正に成功。日本は欧米列強と同等の国家として認められることとなった。
だが、日露戦争そのものは日本の圧勝というわけではなく、実態は時間切れによる判定勝ちに近い。そういったわけで、東京ではポーツマス条約に不満を持った国民による暴動事件が起こったりしている。日露戦争の勝利は日本が大陸進出に傾斜する契機となり、後の韓国併合につながる。
日露戦争で日本は20億円の戦費を費やした。明治35年の日本の国家予算はたったの2億6000万円だったのだから、常識的に考えると当時の日本の身の丈を超える大戦役だったといえる。不足分は国債を発行してイギリス・アメリカ(後にはドイツ・フランスも)が購入した。国内では増税と国債の購入強制、公務員給与の天引きを行って戦費を捻出した。日露戦争遂行のためのポンド建て日本国債は、借換債を発行しながら昭和61年にようやく完済している。
また、日本をイギリス・アメリカなどが、ロシアをドイツやフランスが支援した。これまでにない世界規模の国際関係と近代的総力戦の面から、「第"0"次世界大戦」であったする説もある。
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