毛利勝永は安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した戦国武将。突出した戦闘指揮能力で知る人にはよく知られる。
- 生:天正五年(西暦1577年)
- 没:慶長二十年五月八日(西暦1615年6月4日)
概略
毛利姓を名乗る人物ではあるが中国地方の大半を領土とした中国毛利一族とは関係なく、尾張出身で旧姓は森といわれる。父は豊臣秀吉古参の武将で黄母衣七騎衆の一人に数えられ、九州征伐にて肥後国人一揆と九州平定に功があったので豊前小倉六万石に封じられた毛利勝信の息子である。
また本当の名前は吉政(よしまさ)とも言われている。
天正五年(西暦1577年)、毛利勝信の子として尾張国に誕生する。
九州征伐の功があって父と共に豊前国を与えられた際、秀吉の計らいによって森姓を中国地方の太守、毛利氏の姓に改める。
慶長二年(西暦1597年)、朝鮮出兵に従軍。文禄元年(西暦1592年)、文禄の役では父の勝信が戦地に渡海したが勝永は小倉で留守の番を勤める。一度の休戦の後、和平交渉が決裂して再度、戦端が切られた慶長二年(西暦1597年)、慶長の役では父、勝信と共に戦地に渡海。第一次蔚山倭城の戦いにて食料未配備で冬将軍の最中、築城も満足ではない状態であった加藤清正が籠もる絶体絶命の蔚山倭城の救援に大将、毛利秀元の麾下、一将として赴き、包囲する明、朝鮮連合軍五万七千名を相手に交戦。勝永はこの蔚山倭城の救援部隊の一番隊に所属し敵軍を撃退、更に敗走した明、朝鮮連合軍を追撃し壊滅に等しい損害を与え、これに功を得る。
関ヶ原の戦いでは西軍につき、父に代わって中央で軍勢を指揮し伏見城の戦いで戦功をあげ、そのことで毛利輝元、宇喜多秀家より感状と加増を受けるが、この戦いで勝永隊も大きく被害を受け、軍勢は再編成され安国寺恵瓊の隊に組み込まれた。しかし西軍が関ヶ原にて東軍に敗れ大阪城も早々に降伏開城した為、勝永は西軍に与した事を咎められ父共々、改易となる。
後、慶長十九年(西暦1614年)、大阪の役では豊臣秀頼よりの招きを受け、西軍にありながら東軍所属である山内一豊の妻、千代を厚遇した事によりその縁で篤く持てなされていた土佐から勝永のみが脱走し、大坂城に入城。真田信繁、後藤基次らとともに大坂牢人五人衆となる。
大坂冬の陣では真田信繁と共に、早期の出馬を行い畿内の諸大名を味方に付けつつ野戦を行う戦法を主張したが、大野治長といった古参衆によって容れられず大阪城に籠城。西丸ノ西・今橋を守備する。大坂冬の陣では真田丸を守る真田信繁隊の局所衝突以外、全面的な軍事衝突は発生せず徳川軍と豊臣軍は講和。
翌、慶長二十年(西暦1615年)。大坂夏の陣において講和条件として大阪城の堀が、講和条件からかなり逸脱する範疇で完璧に全て埋め立てられてしまった為、やむなく大阪城の軍勢が打って出た野戦での活躍が特に目覚ましく、先ず緒戦、五月六日の道明寺の戦いにて午前前半戦、八時間に及ぶ奮闘の末、戦死した後藤基次の敗残兵を真田信繁が糾合すると同日午後、藤井寺村に布陣して毛利勝永は真田信繁ら諸将と戦線を構築。誉田廟を境界として徳川軍と相対する(誉田の戦い)。ここで先鋒となった真田信繁は伊達隊先鋒の片倉重長と交戦するが、局地戦では激戦となりながら最終的には片倉隊を真田隊が押し込んだ上で後退し毛利勝永隊と合流、全体的な戦線は膠着する。一方、正午を過ぎると大阪城に別方面で展開されていた八尾・若江の戦い敗戦の報が伝えられ、軍主力の撤退が命令が届き、勝永自らは殿として采配を振り、機を見て配備していた備えの鉄砲隊と共にほぼ無傷で全軍を撤退させる。これは徳川軍の諸将が本腰を入れて追撃しなかった事も幸いした。
翌日、天王寺・岡山の戦いでは天王寺口の戦いに参戦、兵四千名を率い四天王寺南門前、徳川家康本陣の眼前に陣を敷き、勝永隊の物見が先走った本多忠朝隊を発見、これを銃撃するや、戦闘の口火が各地に波及し、勝永は一気に天王寺口・茶臼山から突撃し瞬く間に本多忠朝隊を壊滅させ本多忠朝を討ち取り、小笠原秀政も壊滅させ小笠原秀政は撤退中に戦傷で死亡、そのまま勝永は余勢を駆って浅野長重、秋田実季、榊原康勝、安藤直次、六郷政乗、仙石忠政、諏訪忠恒、松下重綱、酒井家次、本多忠純らが率いる実に十の隊を突破し、遂に家康本陣を脅かし家康を数里に亘って追い回す。勝永と同じく天王寺口・茶臼山から出馬した真田信繁は自隊を先鋒・次鋒・本陣など数段に分け天王寺口の松平忠直隊と一進一退の激戦を続けていたが、「浅野長晟(紀州)が裏切った」という虚報に松平勢が動揺するとその期に乗じて松平隊を突破。勝永らの目覚ましい突破力によって壊乱した徳川家康の本陣へ強行突破を図り猛突撃を加えた。岡山口でも大野治房が家康、秀忠本陣へ槍を付けた。
初動で圧倒的劣勢に晒された家康本陣は恐慌状態に陥り瞬く間に後退。三方ヶ原の戦い以降倒れたことのない家康の馬印を旗奉行が倒した上、近習、馬廻り衆も家康を見失い、騎馬で逃げる家康自身も幾度もなく切腹を口走ったという。
しかし数に勝る家康軍は次第に体勢を立て直し始めると勝永隊は次第に包囲され、続いて決して無傷ではなかった真田信繁が安居天神で休憩している折に討たれると勝永の西側の戦線が崩壊し、全方位から攻撃を受ける羽目になる。後一歩で徳川家康の喉頸にと手を伸ばしながら毛利勝永は此処に至って、撤退を決意。八尾・若江の戦いの敗戦から立ち直った藤堂高虎隊を突破し井伊直孝、細川忠興らの隊をさしたる損害無しで抜けて、岡山口で敗戦した大野治房らの撤退も支援し最後の最後まで戦場に残った上で戦線を崩壊させないまま大阪城に撤退を完了する。
この通り、毛利勝永とは大阪側の武将で大阪夏の陣の前哨戦から戦い抜き、本戦が開始される戦端を切ってから全体の趨勢が決し全軍が撤収する中、最後まで戦線を保ったまま大阪城に撤退を完了させた、正真正銘の化け物である。後は炎上する大阪城で豊臣秀頼の介錯を仕り、息子である毛利勝家とともに自身も蘆田矢倉で静かに自害したという。
人物・逸話
勝永の良く出来た人となりがわかるエピソードが多く伝わっている。
・大坂の陣が近付く中で、敗戦した場合妻子に迷惑がかかることで悩んでいたが、妻は「君の御為の働き、家の名誉です。残る者が心配ならば、わたくしたちはこの島の波に沈み一命を絶ちましょう」といって勝永を励まし、それを聞いた勝永は喜んだとされる。
またそのことを伝え聞いた家康は「勇士の志、殊勝である。妻子を罪に問うてはならぬ」と命じ、勝永の妻子は城内へ招かれ保護されたという。
・大坂の役において、道明寺の戦いで戦地が霧に飲まれ真田信繁、毛利勝永らの援軍が間に合わず後藤基次らが討死した際に、真田信繁は自身の不甲斐無さから弱音を吐露するが、勝永は「ここで死んでも益はない。願わくば右府(豊臣秀頼)様の馬前で華々しく死のうではないか」と切腹を思いとどまらせ鼓舞した。
・武勇においても、東軍側の黒田長政は加藤嘉明にあの戦闘を指揮しているの誰かと問うた所、あれが勝永だと答え、それを聞いた長政は「この前まで子供のように思っていたのに…さても歴戦の武将のようだ」と賞賛と感嘆の言葉を述べたと云う。
・それほどまで人となりも良く、武勇においても真田信繁に負けず劣らずの活躍をしたにも関わらず何故か毛利勝永の知名度は低く、文人・神沢杜口(かんざわとこう)は、勝永の活躍を称賛すると同時に「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」と嘆いている。
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外部リンク
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