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P-40の編集履歴

2013-02-27 23:41:52 バージョン

P-40

ぴーよんじゅう

アメリカ、カーチス社の開発した戦闘機(追撃機)。前作P-36のエンジンを換装し、更なる高性能を狙っている。WW2の頃はすでに旧式化していたが、生産体制が確立していた事もあって1944年いっぱいまで生産が続けられた。特徴は頑丈さの一点張り。

古強者の貫録

原型は「P-36 モホーク」で、これは1930年代に開発された戦闘機である。

当時としては近代的な設計を取り入れており、

全金属製で単葉機、さらには引き込み脚を採用している。


エンジンはプラット&ホイットニー(P&W)の空冷エンジン(1184馬力)を搭載しており、

P-40よりもさらに1t(3割近く)近く軽量である。


太平洋戦争ではビルマで活躍しており、軽量なので格闘戦では分がある。

日本パイロットには『ヒラヒラ飛ぶので決して油断できない相手』とも評価されている。

(無論、『中途半端な駄作』とする意見もある)


P-40はこの設計を生かし、より大馬力の液冷エンジンを搭載した戦闘機として開発された。


WarHawk(戦いの鷹)

換装されたのはアリソンのV-1710エンジン。(1150馬力)

エンジン出力はさほど向上しなかったが、

空力の改善などの改修のおかげで、全体的な性能は向上している。

(最高速度なら70km/hも向上した)

P-36初期で問題になった機体構造の弱さも解決されており、頑丈さが最大の武器である。


第二次世界大戦太平洋戦争の初期に活躍しており、

中でも中国国民党の義勇兵部隊『フライング・タイガース』の活躍は有名。


ちなみに、カーチス社は戦闘機の名前に「~ホーク」と代々名づけており、

カーチス最後の戦闘機も「XF-87 ブラックホーク」と命名されていた。


XF-87「ブラックホーク」

元々は攻撃機XA-43として設計されていた。

1945年2月に「P-61夜間戦闘機」の後継機コンペに応募し、

その時から戦闘機として開発される事に決まった。

元々攻撃機だった事もあり、機体サイズは18.9m×18.3mと大型。

(ちなみにF-15でも19.4m×13m)

主翼に4発のエンジンを搭載するが、エンジンが失敗作だったこともあって不採用となった。



フライング・タイガース

一応、「アメリカ国内からの義勇兵による部隊」という上っ面だけは被っている。

(当時はモンロー主義だったため、議会を説得する為にも必要だった。詳細はB-29で)


実態はアメリカ政府(というか大統領命令)による部隊派遣に他ならず、

従ってアメリカ三軍(陸軍海軍海兵隊

から集められたベテランのパイロットたちで構成されていた。


『義勇兵』という上っ面を守るため、パイロット達は全員軍を(一時的に)退役している。

退役に際しては条件が付けられおり、

・退役後に一時金500ドル支給

・任務終了後は元の階級(同じ給料)で軍務復帰できる

・全員に毎月600ドルを支給(事実上の月給)

・敵一機撃墜でさらに500ドル支給

という風なものとなっていた。


提唱者はクレア・L・シェンノートであり、

パイロット達には自ら編み出した『一撃離脱戦法』を徹底的に叩き込んだ。

性能諸元では既に大したことのないP-40だったが、この戦法で日本機を脅かす存在ともなった。

急降下性能(頑丈さ)なら当時の日本機を大きく上回っていたのだ。


この一撃離脱戦法は頑丈なP-40と相性が良かったが、

当時のパイロットにとっては格闘戦が常道だったため、フィリピンなどでは苦戦を余儀なくされた。格闘戦は零戦一式戦闘機が徹底的な研究を経て開発されていたので、どうしても性能的に遅れをとってしまうのだ。


なお、「フライング・タイガース」は事実上のアメリカ軍であるため、

中国国民党と戦争状態にあった日本の外交的態度を硬化させていく事にもなる。

日中戦争はそのまま太平洋戦争へと拡大し、

アメリカの一国平和主義にも終止符が打たれるのだが、それはまた別の話である。


お手軽簡単3分料理

能力的には既に旧式化していたものの、

太平洋戦争第二次世界大戦ではよく活躍した。


これは当時の事情も手伝っている。

同時期開発のP-38は複雑で高価な双発機だし、

P-39に至っては火力こそ高いものの、飛行性能はハリケーン以下と評されていた。


そんなわけで、いますぐ数が揃う戦闘機としてP-40は重宝された。

しかし肝心の能力はすでに旧式となっており、新型機の開発も並んで進められている。

最大にして唯一の特徴は『頑丈なこと』で、あれやこれやと弄りまわして改良型が試された。


改良型の殆どはエンジンを換装した型だが、

更なる新型機(P-47P-51など)が活躍していた事もあって、

どれもパッとしたものでは無かった。

(わざわざ入れ替える程では無かった)


結局、生産は1944年内まで続けられたものの、P-40の性能はすでに限界だった。

価格もP-38P-47の半値程度と安価で、生産総数も13700機を超えた。

しかし、戦局の激化で性能は時代遅れとなり、すでに活躍の場は残されていなかった。

作られた機体も訓練や標的曳航など、後方任務で使い潰されたようだ。


かくして、円熟の古強者は若手の育成に最後の忠を尽くし、消えていったのである。


シャークティース

なお、フライングタイガースのP-40といえばサメの口を模した塗装「シャークティース」が有名だが、当時の日本軍パイロット達には名前など知る由もなかった。


各自が割と好きなように(解るように)呼んでいたようで、

「大きく裂けた口に歯が並んでいるから、あれはきっとワニの口だろう」

とか、

「いや、フライングタイガースと言うくらいだから、おそらくに違いない」

といった具合である。


ホーク&ホーク(斧と鷹)

輸出もされており、最初の輸出先はナチス占領前のフランスである。

実際の引き渡しが行われる前に占領されてしまい、機体はそのままイギリスへと回された。

これが「トマホークⅠ」で、P-40初期型相当の機体である。


武装は7.62㎜機銃が2門だけであり、間もなく4門に増強したトマホークⅡが登場する。

この後さらに武装強化が行われ、12.7㎜機銃4門となった。

これは後に6門まで強化され、一撃離脱戦法と相まって戦果を挙げた。


『すぐ用意できる』事も相まってソビエトにも輸出(レンドリース)されている。

(ただし、こちらはP-39の方が好評だった)


どの国でも『次なる高性能戦闘機』が登場するまでの「つなぎ」を務めた。

これは古強者たるP-40には相応しい役割であり、勝利への血路を開いていったのだった。

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