リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner)
ドイツのライプツィヒで生まれたリヒャルト・ワーグナー(1813年5月22日 - 1883年2月13日)は、従来の歌劇(オペラ)に文学、演劇、絵画などの要素を加えるなどして総合芸術の域に高め、「楽劇」という形式に発展させたドイツロマン派を代表する作曲家。
生後間もなく父を亡くしたワーグナーは、母親が後妻となったドレスデンの俳優ルードヴィッヒ・ガイヤーのもとで生活していたため、演劇に興味を持っていました。
9歳になったワーグナーは、クロイツ教会学校に入学し、ピアノを学びます。
しかし、演劇に興味があったワーグナーは、ピアノの練習そっちのけで、ギリシャ劇やシェークスピアなどの劇作に熱中。
14歳になるとワーグナーはニコライ中学校に入学し、オルガン奏者ミューラーからピアノを学びます。
そしてワーグナーは、ちょうどこの頃、ベートーヴェンの作品を聴き大いに感激し、音楽への道を進む決心をしました。
1831年ワーグナー(18歳)は、ライプチッヒ大学に進学し哲学を学びます。
翌1832年ワーグナーは、始めてのオペラ「結婚」を、翌年にはオペラ「妖精」を作曲しました。
そして1836年ワーグナーは、4歳年上の女優のミンナ・プラーナー(Minna Planer)と結婚。
更にワーグナーは、シェークスピアを取材したオペラ「恋愛禁制」を発表するが失敗。
その後、生活が安定せず、苦難の日々を過ごしながらも、1845年までの間にワーグナーは、オペラ「リエンツィ」、オペラ「さまよえるオランダ人」、オペラ「タンホイザー」を書き上げると共に、「ベートーヴェン詣で」、パリに死す」、「ドイツ音楽論」などの著書を発表しています。
1849年には、三月革命に参加したとしてワーグナーに逮捕状が発せられたが、リストの助けがあり、スイスで10年間の亡命生活を送りました。
1864年、ワーグナーの音楽を高く評価していたミュンヘンのバイエルン公ルートヴィッヒ2世の招きにより、やっと亡命生活から開放されたワーグナーは、翌1865年オペラ「トリスタンとイゾルデ」を初演し、絶賛を博します。
なおワーグナーは、この「トリスタンとイゾルデ」以降に作曲したオペラを「楽劇」と称しています。
1866年には別居中だった妻ミンナが亡くなり、「指環」を完成させるためにスイスのルツェルン湖畔のトリープシェンに住んでいたワーグナーは、リストの娘コジマとの仲がますます親密になっていきました。
そして、コジマとビューローが正式に離婚した後、1970年ワーグナーは、コジマと結婚。
このとき既にワーグナーとコジマの間には3人の子供があり、その内の1人、ジークフリートのためにワーグナーは、「ジークフリート牧歌」を作曲しています。
自分の楽劇を上演するためには、演出から舞台装置にいたるまで指揮・監督する必要があると考えたワーグナーは、そのためには自身の劇場を持つことを熱望していました。
1872年バイロイト市で、ついにワーグナーの念願であった自分の作品を自由に演出できる劇場「バイロイト祝典劇場」の建設が、多くの方の援助を受けて開始され、1876年に完成します。
1874年ワーグナーは、コジマと共にバイロイトに移り住み、4部作にもなる楽劇の大作「ニーベルングの指環」を完成させました。
1876年には「バイロイト祝典劇場」完成の「こけら落とし」として「ニーベルングの指環」が初演され、大盛況を博しました。
◆参考:「ニーベルングの指環」の構成
前夜 「ラインの黄金」 4幕
第一夜 「ヴァルキューレ」 3幕
第二夜 「ジークフリート」 3幕
第三夜 「神々の黄昏」 3幕
1882年には、ワーグナー最後の作となる楽劇「パルジファル」が「バイロイト祝典劇場」で上演。
この頃からワーグナーは体力の衰えを感じ、翌1883年イタリア旅行中に心臓障害により急変し、回復することなく妻コジマに看取られながら、70年の生涯を終えました。
ワーグナーの遺体は、バイロイトのヴァンフリートに埋葬されました。
わがまま
当時の芸術家達はパトロン探しに必死になっていたが、ワーグナーは親しくなった貴族や富豪達に『このワーグナーに出資する権利をキミに与えよう』といった。
ヒトラー
ナチス総統ヒトラーは彼の大ファンであり、貧乏な学生時代も食費を節約し彼のオペラを見に劇場へ通い、党大会で彼の曲を使う程のワグネリアンであった。
ムダヅモ無き改革
ヨーゼフ・メンゲレの手によってこの世に甦った。ドミートリー・メドヴェージェフを倒すが、ウラジーミル・プーチンに敗北した。