右耳に手を当て、マイクを白いハンカチで包む独特の歌唱スタイルで有名。
戸籍上の出身地は静岡県浜松市だが、実は兵庫県西宮市の出身。両親は結婚しておらず、鶴田の父である大鳥氏の家が鶴田の母との入籍を許可しなかったため。
特攻崩れを自称していたが、実際は特攻機の整備を担当する整備兵だった。しかし映画の出演などで得た莫大な私財を使って戦没者の遺骨収集に尽力し、日本遺族会にも莫大な寄付金をした。この活動が後に政府を動かし、大規模な遺骨収集団派遣に繋がることとなった。
人物像
無類の野球好きで私設の野球チームを率いていたことがある。生前の右派的な言動、また多くの軍歌を歌ったことや戦争映画の主演から右翼と評される事もあり、実際に右翼の街宣車が彼の歌う曲を流す事も多い。鶴田浩二に責任はないんだよ。
戦争責任者に対し「東條英機は切腹するべきであった」、「特攻隊は外道の戦術」と公に批判してもいた。それは同期の桜を涙ぐみながら唄う姿が見られた事からも分かる。
作曲家吉田正とも親交が深く、お互いを「鶴さん」「吉さん」と呼びあう程の仲だった。鶴田のヒット曲のほとんどは彼が作曲を手がけている。
最期
1985年ガンを患っていることが判明したが、本人には本当の病名を伏せていた。その後闘病生活が続いたものの、1987年6月16日に肺癌のため62歳でこの世を去った。葬儀の際、多くの戦友や元特攻隊員が駆けつけ、彼の亡骸に旧海軍の白い夏服を着せた上、棺を旭日旗で包み、戦友たちの歌う軍歌と葬送ラッパの流れる中を送られていった。
代表曲
- 街のサンドイッチマン(1953年)
作詞宮川哲夫、作曲吉田正。鶴田浩二最初の大ヒット曲。
原曲自体は太平洋戦争の頃から存在していたが、歌詞の使用権の問題により、鶴田浩二作詞で特攻隊員の遺書の形をとる「台詞」を「同期の桜」のメロディにのせて朗読した物をリリース。後年歌詞の使用権問題が解決し、「台詞」のあとに「同期の桜」を歌うバージョンもレコーディングしている。