南仏アルビのトゥルーズ伯爵家に生まれる。
1873年、フォンタヌ中学に入学したが、虚弱体質で、アメリ・レ・バンで静養していた。結局翌年、退学。家庭教師につくことになった。
1878年、アルビの客間で転倒し、左足を骨折してしまった。翌年、療養地のバレージュで、散歩の途中みぞに落ちて、今度は右足を骨折。以後、上半身は成長したが、両足の発育は止まってしまった。
1881年、大学入学資格試験に二度目で合格。しかし、勉学の道はやめて、絵画に専念することを決意する。
最初はボナのアトリエで、そこが閉鎖された後は、モンマルトルのフェルナン・コルモンのアトリエで絵を勉強した。身体は弱かったが、陽気で知性的なロートレックは友人たちに恵まれた。
1885年、ロートレックが21歳の頃、モンマルトルでアリスティード・ブリュアンに出会う。ブリュアンは歌手であり、作詞家でもあった。彼の新聞「ミルリトン」にロートレックのデッサンを発表した。彼のキャバレーにロートレックの油絵が並んだ。ロートレックが場末の歓楽街に出入りしたのもブリュアンの教えであった。
このころ、当時18歳のマリアと親しくなる。やがてシュザンヌ・ヴァラドンの名前で画家として有名になる。ユトリロの母親である。この時すでに2歳になるユトリロを連れていた。
1886年、パリに出てきたばかりのゴッホに出会う。ゴッホにアルル行きを勧めたのはロートレックであった。
1888年、24歳。ブリュッセルの20人展に出品。
翌1889年、アンデパンダン展で初のロートレック展を開く。この頃はモンパルトルに入り浸っている。
1891年、27歳。初のポスター「ムーラン・ルージュ」を制作。 以後数年間は制作と旅に忙しかった。
1896年、32歳のとき、マンジィ・ジョワイヤンの画廊で二度目の個展を開いた。
1897年、33歳、フロショ通りに新しいアトリエを構えた。ポスターの制作を辞めて、石版画に熱中する。しかし、このころからロートレックの飲酒が深くなっていった。
翌年の冬あたりから幻覚症状を起こすようになっていた。
1899年、35歳。
2月にアルコール中毒が原因の発作を起こした。ロートレックの母親は治療のため彼を監禁することを決意。力づくであった。ロートレックが画室から出たところを拉致して、ヌイーイのサン=ジャム精神病院に入れた。
ロートレックは自由を奪われてしまったことに耐えられなかった。正常であることを証明するために、記憶だけで『サーカス』シリーズを制作した。ジョワイヤンら友人らの奔走もあって、退院。
しかし、36歳になって、再び飲酒癖が始まってしまった。完全に健康が蝕まれてしまった。
1901年、渾身の力で制作活動を続けていたが、8月20日、発作の再発。ロートレックは母親の購入したマルロメの城館で、母親のそばで死にたいと望んだ。9月9日に37歳で息を引き取った。
母親はアトリエにあった作品をアルビ美術館に寄付した。のちにロートレック美術館とも言われるようになる。