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足利晴氏の編集履歴

2014-12-23 23:32:35 バージョン

足利晴氏

あしかがはるうじ

足利晴氏とは第4代古河公方。(1508年~1560年)

父と弟との争い

1508年、第3代公方足利高基の長男として生まれる。幼名は亀若丸。後に将軍足利義晴から偏諱を賜り晴氏を名乗る。弟に足利高実、雲岳、足利晴直(上杉憲寛)、足利晴泰(大内晴泰)。


1528年に元服するが、当時の里見家当主・里見義豊は晴氏を挙げた。これにより晴氏は上杉憲政と結んで父の高基と弟の晴直と敵対。


最終的に1531年に祖父で元・第2代公方足利政氏の治療を専念させる。この時期から古河公方の地位を確立した。同年、父が隠居した事により家督を継ぐ。


1537年には叔父の足利義明北条氏綱と結んで滅ぼす事に成功した。


選択を誤った末路

ところが、氏綱が死去すると後を継いだ北条氏康とは気が合わず、上杉方に寝返る。しかし1546年に河越夜戦で敗北すると実権を失う。


そして6年後、長男・藤氏を廃して母親が北条家出身の次男・義氏に家督を譲る事を強要される。


1554年には北条家に攻められて降伏。相模国波多野に幽閉されたが、後に1557年に解放される。だが、藤氏を再び後を継がせる計画を立てた為に再び北条家に幽閉された。


結局、晴氏は古河御所に戻れないまま失意の内に53歳で死亡した。その後、義氏の代では古河公方も最早傀儡政権になり、1583年に義氏が死去すると古河公方は断絶した。(娘の氏は足利義明の子供と結婚した為、一応は古河公方の名は残っているか。)

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