福島正則(1561-1624年8月26日/永禄4年-寛永元年7月13日)は、日本の戦国時代から江戸時代前期の人物。
尾張国海東郡二寺村(愛知県あま市)の人。
福島正信と、豊臣秀吉のおばにあたる木下氏との間に長男として生まれる。幼名、市松(いちまつ)。
天正6(1578)年、播磨国の三木城攻略戦において、秀吉の小姓衆として功名をあげて以降、
秀吉旗下として各地を転戦。5年後の賤ヶ岳の戦いでは「賤ヶ岳の七本槍」筆頭として勇名を馳せる。
天正13年、従五位下左衛門尉に任ぜられ、左衛門大夫正則(さえもんのたいふ-)と名乗る様になる。
秀吉死後の慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いでは徳川家康側につき東軍の先鋒第一番手として、
西軍の宇喜多秀家隊と交戦し、東軍勝利に貢献。
戦後は毛利氏の居城であった広島城を与えられ、安芸・備後を領する広島藩の藩主となるが、
元和5(1619)年に行った広島城の修築の件を幕府に咎められ、信濃・越後に転封されて、
川中島の高井野村(長野県上高井郡高山村)に蟄居する。
翌年、息子・忠勝の早逝に伴い越後領を返還し、寛永元年に正則も没する。
この際に、幕府検使・堀田正利の到着前に遺体を火葬してしまった事で、高井野藩は廃藩されてしまう。
創作物での福島正則
戦国無双シリーズ
秀吉子飼いの若武者。共に育った加藤清正を兄弟の様に慕う。喧嘩っ早い単純な性格だが情に脆い面がある。