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三式中戦車の編集履歴

2015-01-11 10:19:30 バージョン

三式中戦車

さんしきちゅうせんしゃ

大日本帝国陸軍が戦時中に開発した中戦車

開発前史

ノモンハン事件以前

 陸軍で運用していた九七式中戦車(以下チハ車)や九五式軽戦車は戦車の役割は

歩兵支援という開発当時の世相から歩兵支援を重視し対戦車戦闘に対しては対戦車砲などの対戦車兵器の役目であるとし戦車による対戦車戦は補助的な扱いであった。

しかし、当時の陸軍は戦車同士の戦闘が今後増加するであろうという予想自体は立てており

九七式中戦車の後継になる(・・・はずだった)試製九八式中戦車(以下チホ車)には対戦車戦闘を重視した長砲身47㎜砲を搭載する予定あり更にチハ車より車体を簡易化させ生産性の向上を図る。

ノモンハン事件後・・・そしてチヘ車開発へ

しかしノモンハン事件などのソ連との国境紛争における戦車戦を通して所詮はチハ車の劣化版でしかないチホ車の開発は没になり、ノモンハン事件の戦訓を取り入れかつ性能を重視したチヘ車(後の一式中戦車)の開発を進めていくことになる。

具体的な内容としては装甲の強化や主砲の強化は当然として素早く動き回るソ連戦車に追撃できるよう高出力エンジンを搭載、チハ車で問題のあった変速装置の油圧サーボ導入による改良などが盛り込まれこのまま問題がなければチハ車の後継車両の後継車両として開発が完了するはずだった。


・・・そう、はずだった。


チヘ車開発の躓き

チヘ車の試作車は41年頃には完成していたものの変速装置の改良がどうしてもうまくいかずおまけに

当時は太平洋戦争が真っ只中で航空機重点主義のあおりを受け戦車開発生産の予算・資材は少なく制限されており開発は思うように進まず、気が付けば43年。戦況は悪化しチヘ車に導入予定だった新機軸導入の一部を諦め先に開発が完了していた二式砲戦車(以下ホイ車)の車体に以前開発されていたチハ改の砲塔を更に改造したものを搭載するという妥協案を採用することで形だけは完成させた。

開発

 車体は九七式中戦車や 一式中戦車の流れを汲む物であるが、主砲は九〇式野砲を対戦車砲化した三式7.5cm戦車砲が搭載されている。

 九〇式野砲を搭載した車両としては他に 一式砲戦車(一式7.5cm自走砲)が存在するが、

一式砲戦車とは異なり砲口制退機が装着されている。また砲が大型化したため砲塔自体も大き くなったが、日本戦車の特徴であった砲塔後部の機銃搭載は廃止され、替わりに弾薬ラックが装備されるようになった(このため弾薬搬入用として砲塔後部にもハッチが装備された)。車体や搭載エンジン は一式中戦車とほぼ同等の物であるため、重量が増加した分だけ機動性は若干低下している。量産に着手できたのは1944年(昭和19年)になってからのであった。

性能

 三式戦車砲は徹甲弾を使用する事により約600mの距離でアメリカ陸軍の制式戦車であるM4中戦車の正面装甲を可能性は低いものの打ち抜けるとされており(ただし使用弾は少数配備の特甲の可能性が高い)、日本戦車として初めて正面からM4の撃破が挑める車両として期待されていた。

しかし、車体部分は九七式中戦車や 一式中戦車とほぼ変わっておらず、防御面に不安があり、M4の75mm戦車砲を1000mでも防ぐのはムリゲーであり本車両はあくまでも米国で言うGMC(自走式対戦車砲)のように敵戦車を正面からではなく側面から砲撃するような運用法を最初から想定していた。

一式戦車砲から三式戦車砲に換装した際上述の通り機動性が低下しただけでなく足回りも悪化してしまった。また、本車両の運用には工兵の支援が必要不可欠であるが国軍の工兵は貧弱であり工作機械も不足しがちであったため国軍の運用限界重量を超える可能性があった。

とはいえこれまでの九〇式野砲搭載の車両であるホニⅠ・Ⅲは固定戦闘室であり装甲板も前方と側面の一部しか覆っていなかった。しかし本車からは全周旋回密閉式戦闘室を採用してあるため攻防力が格段に向上し本車両は本土決戦における対戦車戦闘の要として大いに期待されていた。完成した車両は戦争末期であったため本土決戦に備えて温存され実戦に参加する機会は無かった。本車両は中戦車中隊ではなく砲戦車中隊に配備されることが多かった。

主砲

本車に搭載されたもしくはその予定だった主砲は四種類存在した。(その内搭載されかつ量産に踏み切れたものは三式七糎半戦車砲Ⅱ型だけである。)

三式七糎半戦車砲Ⅱ型

この砲は、巷で言われるような基盤となった九〇式野砲をそのまんま積んだものでではなく

砲尾の形状を変更することにより後座長を約1mから70㎝弱に低減させたものであり本来は

一式七糎半自走砲用に開発された砲を更に小改良したものである。

ただし、砲発射機構は野砲時のまんまの縄を引っ張るものだったため発射のタイミングをとるのが難しかった。(後述の五式七糎半戦車砲Ⅱ型は従来の戦車砲と同じ引き金式である。)

対戦車性能は三式七糎半戦車砲Ⅱ型の場合、資料によってバラツキが大きいが米軍の資料や日本軍側(?)を平均すると、100mで90~92㎜500mで82㎜前後、1000mで70㎜弱の垂直装甲板を貫通できる程度の物だったとされている。(一式徹甲弾使用時)

九五式野砲改造戦車砲(正式名称不明)

九〇式野砲より軽量だったが貫通性能が劣っていたため採用されなかった。三式七糎半戦車砲Ⅱ型と同じく後座長低減などの改良は行っていただろうと思われる。

五式七糎半戦車砲Ⅱ型

また211台目から四式中戦車の砲塔に換装あるいは砲だけを改造して換装するという計画があった。しかし試験では特に問題はなかったというが、換装による1.2tの重量増加による機動力低下に足回りの更なる悪化や運用限界重量の超過等様々な問題点から実際に使いモンになったかは不明。(そもそも砲量産が危うかったため、代用砲身を使う予定だった可能性がある。)

貫通性能は昭和18年度では1000mで75㎜、翌年の19年度では1000mで100㎜貫通を狙っていた。具体的な貫通性能は不明である。

45年5月に発行された戦車用法によると数値上は1000mで撃破できるという想定だった。また、ほぼ同時期の資料には砲塔正面85㎜ 防盾39+85㎜ 車体正面51~65㎜という想定であり近衛第三師団調整資料によると貫通力90㎜の成形炸薬弾では砲塔の一部を除きすべての個所を貫通可とし貫通力100㎜の物ならば全て貫通可としているため少なくとも砲塔正面は、85㎜~100㎜以上の、車体正面は90㎜以上の垂直装甲板に匹敵すると考えていた可能性もあるが

当時の陸軍がM4中戦車の性能をどう解釈していたかは不明である。

五式七糎半戦車砲Ⅱ型(代用砲身)

計画のみ。貫通性能と重量以外は五式七糎半戦車砲Ⅱ型と同様の物と思われるが、砲身寿命は激減したと思われる。



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