概要
東亜国内航空の旅客機である ばんだい号 である
こっちのバンダイでは無いのでご注意を
1971年7月3日
札幌から函館空港へ着くはずであったばんだい号は函館空港目前に墜落した
死者68人全員死亡した
原因
この時実際に操縦していたのは機長昇格訓練中の副操縦士であったことが空港スタッフの証言などによって確認された。だが同機にはフライトデータレコーダーやコックピットボイスレコーダーが搭載されていなかった[1]こともあり、完全に事故原因を解明することは出来なかった。
事故発生当時、空港上空は雲に覆われており、先述の通り着陸に関する最低限の条件をかろうじて満たしている程度であった。また上空の風が強いという当時の気象条件によって機体が大きく流されていたと考えられた。そのため事故原因として操縦乗員(日本人機長とアメリカ人副操縦士)が進路を変針する地点の目安となる無指向性無線標識(NDB)上空に達していないにも関わらず通過したと勘違いし、早めに変針したために、着陸進入操作として高度を下げたところ山地に激突したという説が大勢となった。当時のNDBの精度は必ずしも高いとは言えず、標識の直上でなくとも機上機器が「直上通過した」と表示する事故が本件事故発生以前にも度々あったためである。
しかし、この説には異論がある。前記のようにフライトレコーダーやボイスレコーダーがなく、決定的な証拠を欠くなかで早々に「パイロット・ミス」と決めつけることへの批判があった。特に、事故調査委員会やNHKの取材に対し、函館空港や市内でばんだい号と思われる飛行機の音を聞いた、あるいは飛行機そのものを見たという確度の高い証言者[2]が多数出たことから、空港上空まで到達した(空港より手前で誤って変針したというのが「勘違い」説の根本であり、もし空港上空に到達していれば「勘違い」説は成り立たなくなる)という問題が出た。目撃者らの証言を集めると「空港上空まで到達、着陸復行しようとして山の方に向った」と判断される航路が割り出された。しかし同時刻に飛んでいた他社の航空機もあったこと、さらにNDB直上通過を勘違いしたという仮説と整合が取れないことから、事故調査委員会が大いに紛糾する事態(委員の中には「目撃証言など取らなければ良かった」とまで発言する者もあった)となり、結果的にこの証言を採用しない形で結論が出された。このことが原因で、事故調査委員会で証言担当を務めた海法泰治が報告書提出前に抗議の辞任をしている。
事故調の仮説とは異なる仮説としては、函館近辺の航空地図だけがレイアウトの都合から北方向を上にする通常の書き方ではなかったため、誤読したとの仮説や、機長に不測の事態が発生し(無線通信を分析した所、機長の会話に「思考の遅れ」を感じさせる兆候が見られるとの結果が出ている)、来日して間もない副操縦士が函館の空に不慣れなため事故に至ったとの仮説もある[3]。
ウィキペディアより
その他
乗客の中には、事故発生の前年春に管理馬「リキエイカン」が天皇賞を制するなど、すでに数十年のキャリアがあり、さらなる将来を嘱望されていた中央競馬調教師の柏谷富衛がいた。また、粕谷と一緒に搭乗する予定であった同僚の調教師の西塚十勝は、当日丘珠空港までやって来たが、空港への到着が遅れたため、自分の空港到着時の63便にはすでにキャンセル待ちの客が搭乗していたことなどの事情も絡み、札幌に一泊することにしたのをきっかけに難を逃れている。
ウィキペディアより
リンク
ばんだい号墜落事故外部リンク
ys11(事故機)外部リンク