早霜(駆逐艦)
はやしも
竣工~マリアナ沖海戦まで
アジア太平洋戦争中の大日本帝国海軍に存在した夕雲型駆逐艦の17番艦。1942年度(マル急計画)仮称第345号艦として1943年1月20日に舞鶴海軍工廠で建造され、翌1944年2月20日に竣工し、横須賀鎮守府籍となったが、呉を定係港にしていた。
まず第十一水雷戦隊で乗員の訓練を受け、5月10日にタウイタウイに向け出航したが、この時期にはもはや駆逐艦へも十分な訓練を施すだけの油がなく、内地においてはわずか3ヶ月弱という凄まじい詰め込み訓練だった。タウイタウイ現地で飛鷹、隼鷹、龍鳳らの警戒艦となり、いまだ技量未熟ながら、いきなり基地周辺の対潜掃討などに投入され、この実戦をそのまま訓練の代わりにしていた。
続けて、翌月19日のマリアナ沖海戦では乙部隊に合流し作戦に参加、これが初陣となった。しかし早霜は初陣ながら2機を立て続けに撃墜している。この戦いでは、大火災を起こし総員退艦命令が出された飛鷹の乗員たちを救助した。
その後呉に戻り、20ミリ単装機銃や25mm連装機銃などの対空兵装を大幅追加する改装を受ける。
7月1日に第五戦隊を護衛しリンガ泊地に到着、のちに秋霜、清霜とともに第二駆逐隊を編成し、第二艦隊・第二水雷戦隊に編入された。
レイテ沖海戦群に参加
その後、早霜は10月23日に生起したレイテ沖海戦群に栗田艦隊に属して参加する。翌々日にサマール島へ移動するが、この際、至近弾を浴びて舷側に無数の破孔が空き、燃料タンクに海水が流れ込む損傷を受ける。燃料と海水を分離するためには、ドラム缶に燃料を汲み取った上で揺らさないよう12ノットの低速で走りつつ分離を待ち、柄杓で上澄みを掬う方法しかなかったといい、本艦はしびれを切らした旗艦能代により、コロン島への単独回航を命じられた。
この燃料分離作業を行いながら航行していた26日、敵機に発見されたが、艦長の平山敏夫中佐は艦橋の天蓋から身を乗り出し、航海長の肩を蹴飛ばすという戦車のような操艦で爆撃を回避、さらには艦首を風上に向けることにより豪快な艦首波を発生させ、12ノットをあたかも20ノットで走っているように見せかけて敵機の照準を狂わせるという奇策を用い、追撃を避けきった・・・かに見えた。
ところが1本の魚雷が命中して航行不能に近い状態に追いやられる。その上機銃掃射でハチの巣にされ、機銃員に死傷者が出たが、乗員たちはそれにめげず、機関兵までが飛び出してきて機銃を撃ちまくっていたという。
早霜は沈没を防ぐためセミララ島の浅瀬へ微速でのし上げ、擱座した。
同日、早霜の救援に2隻の駆逐艦が訪れる。不知火と藤波である。早霜は「敵襲ノ恐レアリ、来ルナ」と信号を送るが、不知火はそれに構わず沖合1000メートルに停止し、救助のカッターを下ろし始めた。だが早霜の悪い予感は的中し、作業を始めた直後、敵機の来襲に離脱が間に合わなかった不知火は艦中央部への爆弾直撃により轟沈、乗組員は全員が絶命。続けて救援にきた藤波もまた、空襲を受け沈没し、前日に藤波が救援した鳥海の乗組員もろとも、一人残らず戦死してしまう。
結局、乗組員は2週間ほど放置されたが、別の救助船により救助された。
そして擱座した早霜はセミララ島に放棄されたのち、船体を米軍が捕獲し調査しているが、その後の消息は定かではない。一説には米駆逐艦・ウォーカーにより完全破壊されたといわれているが、終戦時に残っていたとする説もあるという。