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史実

夕雲型駆逐艦の最終19番艦で、1942年度(マル急計画)に浦賀船渠で起工、1944年(昭和19年)5月15日に竣工した。甲型駆逐艦として最後の艦でもある。

就役とともに横須賀鎮守府籍となり、第十一水雷戦隊に編入。旗艦「長良」および僚艦「」とともに横須賀に向かい、そこで「多摩」「木曾」「皐月」とともに「伊号作戦」に参加した。

同年10月18日に捷一号作戦に第二艦隊第三戦隊第二部隊と共に参加。レイテ沖海戦にて被弾した戦艦「武蔵」の援護を「利根」と共に担当。だが「武蔵」は空襲によって撃沈され、「清霜」にも一番発射管に直撃弾1発が命中。その後「浜風」と共に「武蔵」の乗員約500名を救助した。ただし、この「武蔵」の乗員は後にマニラの戦いに参加して全滅した。

12月24日にミンドロ島のアメリカ軍に対する殴りこみ作戦「礼号作戦」に参加。

2日後の12月26日21時15分、「清霜」はB-25の爆撃に遭い、左舷中部に250キロ爆弾を受け、重油タンクが破壊され左舷の機関は停止。また、数分後には右舷の機関も停止して航行不能となった。艦尾が激しく沈下し船体全てから火災が発生した「清霜」は、23時15分に大爆発を起こして北緯12度38分 東経120度43分の地点で沈没した。

第二水雷戦隊司令官木村昌福少将は戦闘終了後に「」と「朝霜」と共に救助活動を行い、1時間14分に及ぶ救助作業の末、白石長義司令以下91名が「霞」に、駆逐艦長梶本顗中佐以下167名が「朝霜」に、合計258名が救助された。戦死および行方不明者は84名であったが、行方不明者のうちの5名は米魚雷艇に救助されたため、実際には79名である。

戦後、海上保安庁のしらうめ型巡視艇として「きよしも(CL-65)」が存在したが、こちらは旧海軍の25トン内火艇(砲艇型)がルーツである。

関連項目

夕雲型駆逐艦

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