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道光帝の編集履歴2016/04/24 12:47:08 版
編集者:pupil.admiral
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道光帝

どうこうてい

清朝八代の皇帝 宣統帝の大叔父に当たる。 アヘン戦争で大英帝国に敗北した上、太平天国の反乱軍にも敗北した。 在位 1820年 - 1850〈68歳〉

生死:1782年9月16日 - 1850年2月25日〈68歳〉

在位:1820年10月3日 - 1850年2月25日〈30年〉

中国清朝の第8代皇帝。諱ははじめは綿寧、即位後に即位後に旻寧と改める。廟号は宣宗。在世時の元号の道光を取って道光帝と呼ばれる。彼の治世は嘉慶帝とともに動乱の時代として認知される。

アヘンとの戦い

先代・嘉慶帝の時代から続くイギリスからのアヘンの密輸による中毒の蔓延は深刻だった。紫禁城政府が幾ら取り締まりの強化を命じても役人は私服を肥やすばかりで対処が散漫であり、アヘン中毒は紫禁城の高級官僚・皇族の間にも及ぶ始末であった。そんな状態であったから、「逆にアヘンの輸入を認めて関税を得たほうが良い」と述べた枢機大臣(軍機処大臣)もいたほどである。アヘンの容認か徹底取り締まりかは意見が分かれたが、道光帝自身は麻薬の中毒性をよく理解しており、徹底的な取り締まりを決意。林則徐を欽差大臣(特定の事項に関して、皇帝から全権を委任された大臣)に任じて麻薬取締りを一任、一定の効果を挙げる。取り締まりを知った大英帝国は、現地(広州)のイギリス商人を支援するためにイギリスの東洋艦隊を派遣した。林則徐も広州の防備を固めてイギリス軍を迎え撃つ態勢を整えていたが、広州の防御が固いと見たイギリス艦隊は、より北京に近い天津に向かった。間近に艦隊を迎えた紫禁城政府は狼狽し、慌てて林則徐を解任し、イギリスの意を迎えることに必死になった。林則徐の後任の琦善はひたすらイギリスに低姿勢で臨み結果清が大幅に譲歩した南京条約を結ぶ事になった。

大変天国国の乱

清朝のイギリス帝国・フランス共和国〈英仏帝国〉への屈辱的対応や、政治の腐敗による行政の劣化に道光帝は悩まされ続けた。民衆にも不満は高まり、それが一つの大事件につながった。洪秀全一味による「太平天国」の建国である。洪秀全は〈天王〉を名乗り皇帝に即位。これに対し清は八旗緑営軍が鎮圧に出動。しかし八旗緑営軍が太平天国軍に完敗する事態となってしまった。これにより紫禁城政府はいよいよ混乱し、屈辱的な対策を打ち出した。大清皇帝が自らイギリス英仏帝国軍側に救済の直談判をしたのである。これに対し英帝国は清の領土侵略の一時停止〈停戦〉の引き換えに清国へのアヘン輸入の前面許可を条件に出した。道光帝は非常に不本意だがこれを受け入れ、一応清朝は太平天国への防戦に全国力を使うことができた。しかし康熙帝時代の軍備とさほど変わらない清朝の八旗軍もはや使い物にならないことが国内外に知れ渡り、諸外国〈ロシア帝国大日本帝国〉などの帝国列強のさらに許す結果となった上、アヘンが清朝社会に末端まで浸透し、清帝国の三分の一の臣民に重度のアヘン中毒者を出す結果となってしまった。

そして道光帝自身は太平天国への対処をしている最中に崩御してしまう、英帝国軍側も〈停戦〉一方的に破棄、結局2代後の同治帝の時代まで太平天国との争いは継続する。清は結局の所太平天国と西洋諸帝国との二重の戦いを続けることになってしまった。

道光帝の肖像画にも残るように道光帝の風貌や顔は痩せ衰えてしまっていて、帝国の困難を如実に表していることの比喩にもなった。後々アヘンが強大な清朝を滅ぼしたということが、中国民の記憶に焼きついた。その結果現在の中国国家である中華人民共和国では薬物罪については極刑で臨んでいる。

関連タグ

清朝 愛新覚羅

宣統帝・・・道光帝の家系の子孫。最期の皇帝。

易姓革命

アヘン

キリスト教・・・太平天国の初代天王の洪秀全は国教をキリスト教と定めた。(彼独自のキリスト教)

(七代皇帝)嘉慶帝← →咸豊帝 (九代皇帝)

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