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エーリヒ・フォン・マンシュタインの編集履歴

2017-03-27 23:45:31 バージョン

エーリヒ・フォン・マンシュタイン

えーりひふぉんまんしゅたいん

ドイツ陸軍の元帥。

経歴

フリッツ・エーリヒ・フォン・レヴィンスキー・ゲナント・フォン・マンシュタインは1887年11月24日、プロイセン王国のベルリンにてエドゥアルト・フォン・レヴィンスキー大将の息子として誕生。生まれる前からレヴィンスキー大将の義弟ゲオルグ・ファン・マンシュタイン中将の養子と決まっていた。


代々軍人の家柄の子息らしく陸軍幼年士官学校、第三親衛歩兵連隊の大隊長副官、プロイセン陸軍大学とエリート街道を歩み、1914年7月の第一次世界大戦勃発で陸軍大学を教育課程途中で卒業する。


1918年11月の第一次世界大戦終結時は第213歩兵師団主任作戦参謀の大尉であった。


戦後はヴァイマル共和国軍に残り、ブレスラウの国境警備隊、第5歩兵連隊の中隊長、兵務局、第2軍管区司令部、第4軍管区司令部、第4歩兵指導者司令部、第4歩兵連隊の猟兵大隊長、第3軍管区参謀長、参謀本部作戦部長、参謀本部第1部長、第18歩兵師団長などを務め、1939年8月の第二次世界大戦勃発時には南方軍集団参謀長の少将であった。


1939年9月からのポーランド戦役に参加。


10月24日、A軍集団参謀長となる。


1940年2月1日、第38歩兵軍団長に左遷される。


1940年5月からのフランス侵攻に参加。


6月1日、フランス戦での功績とフランス侵攻計画のマンシュタイン・プランの起草者としての功績を認められ大将に昇進。


1941年2月15日、第56装甲軍団長に就任。


6月22日からのソ連侵攻作戦バルバロッサに参加。レニングラードを目指し26日にはデュナブルクを占領。


9月12日、第11軍司令官に任命される。


24日、クリミア戦を開始。11月にはクリミア半島をほぼ制圧し、12月17日にセヴァストポリ要塞攻略を開始するも26日にケルチ半島にソ連軍が上陸し攻略を中止。ケルチ半島からソ連軍を追い落とすのに1942年5月まで費やす事となる。


3月7日、上級大将に昇進。


6月よりセヴァストポリ要塞攻略を再開し、掻き集めた列車砲などのあらゆる大砲による猛砲撃と空軍の支援のもと7月3日にセヴァストポリ要塞を陥落させる。


7月1日、セヴァストポリ要塞攻略の功績により元帥に昇進。


8月、第11軍はレニングラード戦線に転戦する。


11月22日、新設されたドン軍集団司令官に就任。(第11軍は解体され、ドン軍集団に統合)


12月11日、包囲されたスターリングラードの第6軍を救出する為に第4装甲軍による冬の嵐作戦を開始するも、作戦中にロストフへのソ連軍の攻勢が始まり第6装甲師団を派遣して対処したことで作戦の勢いは衰え、更に包囲下の第6軍が脱出を拒み、攻勢は頓挫。26日に作戦は断念された。


1943年2月19日、スターリングラード包囲から始まった一連のソ連軍の攻勢にクルスク、ハリコフ、ベルゴロドを占領され退却しながらも反撃の準備を整えていたマンシュタインは補給の伸びきったソ連軍に対して南方軍集団(ドン軍集団より改名)の反撃を開始。3月にはベルゴロド、15日にはハリコフを奪還する。


7月4日、クルスクを中心とした突出部を包囲殲滅する為のツィタデレ作戦が開始され、南方より攻撃するマンシュタインの南方軍集団は北部の第9軍の歩兵で突破口を穿ち、予備の装甲師団で突破する方針でなく、装甲師団も最初から攻勢に投入する事で第9軍と違いソ連軍戦線を突破し、膨大な損失をソ連軍に強要するも、英米連合軍のシチリア上陸に対処する為に第4装甲軍主力の第2SS装甲軍団が抽出されることとなり、また北部ではオリョールに対するソ連軍の反攻が開始され、作戦は中止された。


8月5日にオリョール、23日にはハリコフが陥落。9月には焦土作戦を命じて遅滞戦術をはかるも後退は止まらず11月6日にはキエフが陥落し、その奪還の作戦もソ連軍の抵抗で頓挫した。


1943年1月18日よりのソ連軍攻勢でチェルカッシー―コルスンの第8軍は包囲され、2月16日までの戦いで大損害を受けつつも過半の兵を脱出させた。


3月4日から始まったソ連軍の攻勢により第1装甲軍が包囲殲滅の危機に晒されるも包囲網よりの脱出を敢行し4月5日に第6軍と合流に成功し戦線崩壊の危機を免れるも、マンシュタインは3月20日に解任され予備役となった。


1945年8月26日、英軍により逮捕される。


1946年12月より始まったニュールンベルク継続裁判で東部戦線での犯罪行為容疑で裁判を受け、1949年に18年の懲役を下されるが1950年に12年に減刑され、ヴェルル刑務所に投獄された。


1953年5月7日、恩赦で釈放される。


1973年6月10日、イルシェンハウゼンにて脳卒中の為に死去。


逸話

プロイセン陸軍大学で電撃戦で有名なハインツ・グーデリアンとは同期だった。また対フランス戦でアルデンヌの森を装甲部隊で突破するマンシュタイン・プランを相談したのも彼である。もっとも親しかったからか、それとも自分のプランに賛成しそうな異端児だったからかは定かではない。回想録ではグーデリアンが持ち主から取り上げた農場をヒトラーからの援助金で購入したのではないかというようなエピソードをマンシュタインは記述している。


フランス侵攻作戦計画、第三次ハリコフ戦などで示された軍事能力に対する評価は高く「ドイツ陸軍最高の頭脳」と評される。また戦時中のアメリカのタイム誌に醜悪に修正されること無く表紙となり「最も恐れるべき敵」と記されたという。


尊大で冷淡な面を持っていたといわれる。

その為か人間関係でぶつかる事もあったようである。

兵務局作戦部時代に後のOKW(国防軍最高司令部)総長となる編成部長ヴィルヘルム・カイテル(当時中佐)のプランの不具合を指摘し、上にそれを認めさせ修正したことでカイテルとの仲は悪くなり、1938年4月、ヒトラーに仕組まれたスキャンダルで国防相と陸軍総司令官が罷免されたブロンベルク罷免事件の煽りを受けて参謀本部第1部長から第18歩兵師団長に左遷され参謀総長の道を絶たれたが、それにはOKW総長の大将カイテルの意志も反映されたという。

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