1907年1月1日生まれ、1931年8月2日没、岡山県出身、1928年、アムステルダム五輪800m銀メダル。
エピソード
今日では日本における初期の女子アスリートとして知られている彼女だが、現役時代は周囲から偏見を受けていた。大和撫子が人前で肌を晒すなどとんでもない、日本の文化を壊すなという怪文章が送りつけられる事は一度や二度ではなく、中には女子の陸上選手を取材したいというので後輩と共に取材を受け入れたところ明らかに人見がモデルと分かるクレイジーサイコレズの先輩につきまとわれて堕ちていく女子陸上選手の小説を書かれたことすらあった(その後輩はショックで陸上を辞めている)。
この事件以降、人見は自分への中傷はどんなものでも甘んじて受け入れるが、自分の後に続く者には指一本触れさせないとたびたび言うようになった。
このような風潮もオリンピックでメダルを獲して以降は少しだけおさまったという。
アムステルダムオリンピックでは、本業の100mが不調により準決勝敗退となり、今まで練習で軽く走っただけの800mに賭けることになったのだが、リナ・ラトケとの壮絶な一騎打ちの末に惜しくも銀メダルとなる。だが、この名勝負は勝ったラトケはゴール後に倒れ込んだ後意識を失い、人見に至ってはレース後に体を壊して3年後に亡くなってしまった。この事は女子に激しい運動をさせてはならないという風潮をもたらし、結果的に女子アスリートのオリンピック参加への道を狭めてしまうという皮肉な結果を招いてしまった。