本願寺顕如(1543年2月9日-1592年12月27日/天文12年1月6日-文禄元11月24日)は、日本の戦国時代の人物。
浄土真宗本願寺11世。証如(光教)の長男として摂津国大坂に生まれる。諱は光佐。九条稙通の猶子となる。
天文23(1554)年、祖母・慶寿院(鎮永)の補佐を受けて、僧職を継ぎ教団を運営した。
15歳の時に、細川晴元の女と結婚し、永禄元(1558)年に長男・教如を生む。
元亀元(1570)年、織田信長軍が摂津へ向かって来た事で諸国の門徒に檄を飛ばし、信長との敵対を決意。
武田、浅井、朝倉、毛利氏ら同盟者と連絡をとって長年にわたり抵抗したが、
天正8(1580)年4月9日、正親町天皇の仲介で和睦。紀伊国(和歌山県)鷺森に退く。
信長死後、豊臣秀吉とは友好関係を保ち、天正19年3月に京都西六条の地を寄進され、
同年8月に息子・教如と共にこの地に移り、今日の西本願寺の基礎を築いていった。
創作物での本願寺顕如
戦国BASARAシリーズ
「筋力本願」を座右の銘にする程、筋力と金力を愛しており
その力を轟かせる為に各地を侵略する破戒僧。