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ベーブ・ルース

べーぶるーす

1910年代から30年代にかけてアメリカのメジャーリーグで活躍した野球選手である。人呼んで「野球の神様」。

概要

生:1895年2月6日 没:1948年8月16日

本名:ジョージ・ハーマン・ルース

所属球団:ボルチモア・オリオールズ(※)→ボストン・レッドソックスニューヨーク・ヤンキースボストン・ブレーブス

投手として、大リーグ通算94勝46敗、20勝以上を2回含む4度の2桁勝利を挙げ、1916年には最優秀防御率のタイトルを獲得しており、1916年に挙げたシーズン9完封は左投手としての完封数の記録として1978年に破られるまで、半世紀以上に渡る大リーグ記録だった

変わった記録としては、彼が先発した試合で1死も取れずに審判の判定にクレームをつけて、退場処分を受け、後を受けた投手がその後一人のランナーも許さず、ノーヒット・ノーランを達成(一時期完全試合とも記録されているが、現在ではこちらに落ち着いている)、実は「継投によるノーヒットノーラン」を初めて達成した投手の一人(ただし勝利には全く貢献せず)でもある

というように、このベーブ・ルースという投手は「投手として記録に残る選手である」である事には間違いない・・・

・・・はずなのだが、打者に専念して以降の成績があまりに強烈だった為に、投手として記憶される事が(打者に比べ)ほとんどないのは仕方ないとしか言い様がない。

日本でも打者としては超有名ではあったが、久しく投手としてのベーブルースの事が扱われることが少なかったのだが、2010年代に大谷翔平が二刀流選手として活躍するようになり、過去の有名な二刀流選手として、ベーブの投手の記録が陽の目をようやく浴びるようになった。

ただし大谷翔平とは異なり、彼の場合は投手と野手をシーズン毎(1914年~1919年、例:14年投手専念、15年野手専念)に切り替えたため、ワンシーズンを通じての二刀流は実は一度たりともなかったのである

打者としての活躍はもはやここで書くまでもないが、通算714本塁打、本塁打王12回、打点王6回、首位打者1回など数々の大記録を打ち立てた。控えめに表現しても「野球界で最も偉大な英雄」として現在でも野球界では神聖で不可侵な存在であり、日本で言えば長嶋茂雄王貞治を足してもまだ足らない、と言うくらい偉大な存在。

なお、打者としてのベーブ・ルースの成績は既に幾人かの選手に追い越されているが、ハンク・アーロンバリー・ボンズにしろ、日本の王貞治にしろ、投手タイトルまで取った選手は皆無であり、そう言った観点からしても、ベーブ・ルースが最も偉大な大リーグ選手である、というのは否定しがたい事実である。

その成績以外でも、筋骨逞しいメジャーリーガーのイメージとはちょっと違うポッチャリ体型(と言うより関係者に真剣にダイエットを言い渡された程の完全なデブ)や子供っぽい性格(『Babe(赤ちゃん)』のあだ名の由来でもある)等もあって現役時代からその人気は相当なものであり、彼自身ファンサービスには非常に積極的だった。

自身が不遇な幼少期(完全な不良少年に育ってしまったせいで7歳で矯正学校に入れられた過去を持つ)を送ったせいか、子供のファンには滅法弱く、「子供達に幻滅されるぞ?」と言われただけでマジ泣きして不摂生を止めた程である。

当然子供達にとっても彼の影響力は絶大・・・・・・をはるかに通り越して非常識レベルだった様で数々の逸話を残している。

『重病で長期入院中の少年がルース直々に「お前の為にホームラン打ってやる」と言う約束を有言実行されて病気を克服、軍人を経て梱包機械会社の社長にまで登り詰めた』というあまりにも有名な物もあれば、『ルースが通りすがりに声をかけただけの小児麻痺で2年間自分の足で立てなかった子供がとっさに立ち上がったという最早どっかの神様レベルなものまである。

※:現在のオリオールズとは別のマイナー球団。

関連タグ

金城漢大谷翔平:韓国と日本でベーブ・ルースと同じ1シーズン2桁勝利・2桁本塁打を達成した選手たち。勿論、ともに韓国人初・日本人初の記録である(金は1982年、大谷は2014年と2016年)。

沢村栄治:日本のプロ野球が始まるより以前の1934年12月に開催された日米野球大会で、沢村がベーブを三振に打ち取り8回5安打1失点と好投した。その時の会場だった静岡県草薙球場は2度の改修を経て『澤村 - ベーブ・ルース Memorial Stadium』の愛称が付けられた。

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