カルカ河畔の戦い
かるかかはんのたたかい
1223年5月31日に起きたモンゴル帝国軍とロシア諸侯・ポロヴェツ族連合軍の会戦。
概要
13世紀に入りモンゴルの諸部族を統一したチンギス・ハーンは周辺諸国に侵攻しモンゴル帝国と呼ばれる強大な国家を築き上げ、1219年には大西征を行い中央アジアの大国であったホラズムを征服した。
ホラズム王ムハンマドはカスピ海の小島に逃れて1220年にそこで死んだが、ムハンマド追撃の任を任されたモンゴル帝国の将軍であるジェベとスブタイはムハンマド死後もグルジア王国等の周辺勢力を侵略した。
そして1223年に至ってジェベとスブタイ率いる帝国軍の部隊は南ロシア平原に侵入し、現地の遊牧民族であったポロヴェツ族とロシアの諸侯による連合軍とカルカ河畔(現在のウクライナ南部のカリチク川)にて激突した。
戦いは数に劣りながらも機動力に秀でたモンゴル騎兵を擁するモンゴル帝国の勝利に終わり、捕虜となったロシア諸侯はことごとく処刑された。
既にキリスト教国のグルジアと対戦していたが、ヨーロッパ勢との本格的な衝突はこれが初めてでこの約十数年後にヨーロッパ諸国は帝国の本格的な侵攻にさらされる事になる。
関連人物
モンゴル軍
- ジェベ(?~1224年or1225年)
帝国軍の指揮官。
チンギス・ハーンの「四狗」の一人に数えられる名将。
- スブタイ(1176年~1248年)
帝国軍の指揮官。
ジェベと同じくチンギス・ハーンの「四狗」の一人に数えられる名将。
後にヨーロッパ遠征に参加した。
ロシア(ルーシ)諸侯軍
- ムスチスラフ3世(?~1223年)
キエフ大公。捕虜となり処刑された。
- ダニール・ロマノヴィッチ(1201年~1264年)
ヴォルィーニ公。
- ムスチスラフ・ムスチスラヴィチ(1176以前~1228年)
ガーリチ公。
- ムスチスラフ・スヴャトスラヴィチ(?~1223年)
チェルニゴフ公。捕虜となり処刑された。
- ドミトリー・ムスチスラヴィチ(?~1223年)
チェルニゴフ公ムスチスラフ・スヴャトスラヴィチの子。捕虜となり処刑された。