清水寺
きよみずでら
創建伝承
かつて奈良の小島寺の賢心(後の延鎮)が霊夢によって木津川の北上にある清泉をもとめて上がると、音羽山嶺の滝に辿り着き、そこで修行していた行叡居士と出会った。行叡居士は賢心に霊木を授けて、千手観音を奉刻して観音の霊地を守るように伝えると、そのまま姿を消した。賢心は、行叡居士が観音の化身であると悟り、千手観音を奉刻して観音の霊地を守ったという。
それから2年ほど経ったころ、坂上田村麻呂が鹿狩りに音羽山に上がってきた。妻の高子の安産のためであった。そこで美しい水流を見付けて水源へと進むと、そこには庵があり賢心と出会う。田村麻呂は賢心に鹿狩りの事を話すと、観音の霊地での殺生を嗜められ、観世音菩薩の教えを諭された。田村麻呂は感銘を受けて、無事に出産したことから深く観音に帰依したという。そして自らの邸宅を仏殿として寄進して十一面千手観音菩薩を御本尊として安置したのが清水寺の創建と「清水寺縁起」に記されている。
この事から清水寺では行叡居士を元祖、延鎮を開山、坂上田村麻呂を本願と位置付けている。
仁王門をくぐり、鐘楼の近くに田村麻呂が鹿を祀った鹿間塚があり、この場所に堂宇が建てられたのが清水寺の起源という。
清水の舞台から飛び降りる
一世一代の決心のもとに行動を起こすことを、「清水の舞台から飛び降りる」というが、その“清水の舞台”はまさしくこの清水寺の事を指している。
縁起によれば、あるとき検非違使が数人のならず者に追われ、逃げ道を失った末にこの部隊から飛び降り、大きな気が無く難を逃れたという。またある女性が、世を儚んで我が子を道連れに舞台から飛び降りたが、観世音菩薩が現れて母子を救い、改心させたとも伝わる。
以来、「清水の舞台から飛び降り、そこから無事に生還できると願いが叶う」とまことしやかに囁かれるようになり、江戸時代には記録に残っているだけでも実に234人もの参拝者が、願掛けや度胸試しに舞台から飛び降りており、明治時代になると政府がわざわざ「飛び降り禁止令」を発するほどだったという。
なお死亡率は全体を見ると15%と、約12mとビル4階分に相当する割には意外に低い。
しかし有識者の弁では、「当時は今ほど境内が整備されていないので、舞台下の土が柔らかくクッションのようになっていた」としており、また当時の風俗画には“唐傘を指しながら飛び降りる”姿が描かれている。
これら条件から偶発的に致死率こそ低かったというが、現在では境内の整備が行き届き、当時の用に無事では済まされないとしている。