概要
領地の広い藩は都市名で呼ばれる場合と広域地名で呼ばれる場合があり、長州藩は萩藩ともいう。どちらが正式名称かは決まっていない。長州とは長門国のことだが周防国も領地に含まれている。
戦国時代に中国地方の大半を領有した毛利家が藩主を務める。関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となるも全く動かなかった。西軍が負けたため徳川家康に領地を減らされてしまい長門と周防の2か国のみとなってしまった。
これが原因で、臣下が倒幕について問い、藩主が「まだ早かろう」と答えるのが正月の恒例行事になっていたと言われている。
幕末の藩主・毛利敬親は何を言われても「そうせい」と答えていたことから「そうせい侯」と呼ばれていた。それしか言わなかったのは「そうしないと殺されていたから」と後に本人が語っている。
周防国に岩国藩という藩があったが、この藩は関ヶ原の戦いで家康と内通していた吉川広家の領地である。普通に考えれば敵の総大将の領地は全没収されてもおかしくないが、毛利が2か国を残されたのは吉川のおかげとも考えられている。しかしこの出来事が話をややこしくしてしまい、岩国藩は長州藩の支藩なのか長州藩の一部なのかはっきりしないというややこしい状態になってしまった。