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概要編集

江戸時代末期の長州藩第13代藩主。幼名は猶之進。

生没年 文政2年(1819年)2月10日~明治4年(1871年)3月28日

父は世襲家老家一門八家の一つ福原房純の養嗣子・福原房昌(後の長州藩第11代藩主・毛利斉元)。

有能な家臣を登用し活躍させ、窮乏していた長州藩を豊かにし幕末の雄藩に引き揚げ、結果として明治維新を成し遂げるきっかけを作った人物。


文政2年(1819年)2月10日、福原房昌の長男として生まれる。

直後、父・房昌は長州藩第10代藩主・毛利斉煕の養嗣子として毛利家に入り教元、次いで斉元と改名、房昌の長男である猶之進は教明を名乗る。


天保7年(1836年)、父の第11代藩主・毛利斉元、そして、第12代藩主・毛利斉広が相次いで亡くなり、翌天保8年(1837年)、教明が毛利本家の家督を継ぐ。

このおり、将軍徳川家慶から諱を与えられ、「毛利慶親」を名乗る。


嘉永6年(1852年)、浦賀に蒸気船4隻が出現し、アメリカからの使者・ペリーが国書を携えて来航、国を揺るがす事態に鎖国と開国の対立が激化、尊王攘夷運動が起きる。

長州藩でも対立が激化し、佐幕派と討幕派の対立に発展する。


文久3年(1863年)4月、攘夷派が主導権を握り外国船を砲撃、同年8月、「八月十八日の政変」が起きたことにより攘夷強硬派の長州藩は京の都より追放されることとなった。

元治元年(1864年)4月、池田屋に潜伏する藩士の多くが新選組に襲撃される事件が起きる(池田屋事件)、同年6月、失地回復を狙って京の都に軍を進めた長州藩が会津・薩摩をはじめとする幕府軍に敗れる事件が起き、”朝敵”の烙印を押される。

同年8月、イギリス・フランス・オランダ・アメリカ合同艦隊が下関を来襲、なすすべなく敗れる。


元治元年(1864年)10月、第一次長州征伐が勃発し敗北、長州藩は3人の家老を切腹させたすえ、藩主・慶親・元徳親子が謝罪のため上洛すると約束する。

しかし、約束が守られなかったことにより、幕府内で対長州強硬論が起きる。

この間、長州藩内でも討幕派が主導権を握り、薩摩藩と軍事同盟を結ぶ密約が結ばれる。


慶応2年(1866年)8月、第二次長州征伐が勃発、しかし、このとき長州藩は薩摩藩を仲立ちに西洋式の軍備を整えただけでなく、身分にとらわれぬ軍隊を作った高杉晋作、合理的な軍略を駆使する大村益次郎らの活躍うにより、幕府軍を事実上の敗北に追い込んだ。


以後、長州藩は薩摩藩ととともに討幕を主導、敬親は彼らの行動を黙認することで、新たな時代を築き上げていった。

関連タグ編集

江戸時代 江戸幕府 幕末 長州藩

薩長土肥

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