「肉は切り取っても良いが、契約書にない血を1滴でも流せば、契約違反として全財産を没収する」
概要。
基本となるストーリーは、中世イタリアのヴェネツィア共和国と架空の都市ベルモントを舞台に繰り広げられる商取引と恋の喜劇である。
後述するあらすじの内容から、日本では「人肉抵當裁判」として紹介されたこともある。
タイトルの『ヴェニスの商人』とは有名なユダヤ人の金貸しシャイロックを指すのではなく、主役であるバサーニオの友人の貿易商のアントーニオのことである。
これは原題を見れば分かりやすいが、原題では、『The Merchant of Venice』と書き、merchantというのは小売商のような「商人」ではなく、むしろ「貿易商」を意味する。貿易で栄えたヴェニスが舞台になっているのはそのためである。
物語は高利貸しシャイロックが金を貸す際に取った、人命にかかわる内容の証文が現実になったことによって起こる裁判と、ベルモントの美しい貴婦人を射止めんとする若者の話を基軸とする。
あらすじ
ヴェニスに棲む青年のバサーニオは、架空の都市であるベルモントの富豪の娘であるポーシャに結婚を申し込む為に友人のアントーニオに借金をする。
当時、全財産をかけて商売をしていたアントーニオは、バサーニオに金を貸すことができず、仕方なく悪名高い高利貸しであるシャイロックから金を借りることにする。
その際、常々アントーニオに商売を邪魔されていたシャイロックは、契約書の中に「金を払えなかった場合は、アントーニオの肉1ポンド分をシャイロックに渡す」という一文を入れることで金を貸すことを許可する。
1ポンド分の肉を切り落とせば、その生命は無くなることからその契約に反感する二人だったが、結局のところこの契約を了承してアントーニオは金を借りることになる。
その後、バサーニオはポーシャの家の試練を潜り抜けてポーシャと結ばれることになるが、アントーニオの全財産をかけた貿易船は沈み、アントーニオは一文無しになってしまう。
借金返済が不可能になったアントーニオに対して、シャイロックは契約書通りにアントーニオの肉1ポンドを要求するが、アントーニオの窮地を知ったバサーニオは、アントーニオの代わりにシャイロックに金を払うと申し出る。
だが、あくまでもシャイロックはバサーニオの言い分を頑として聞かずに裁判に訴え、契約通りアントーニオの肉1ポンドを要求する。
そんな中、バサーニオの妻となっていたポーシャは、夫の友人であるアントーニオを助ける為にこっそりと若い法学者に変装してこの裁判の裁判官となると、シャイロックの言い分を認めてアントーニオに肉1ポンドを切り取ることを要求する。
しかし、裁判に勝って喜んだシャイロックに対して、ポーシャ扮する裁判官は、「肉は切り取っても良いが、契約書にない血を1滴でも流せば、契約違反として全財産を没収する」と命じて、肉を切ろ取ることを諦めさせる。
仕方なく肉を切り取る事を諦めたシャイロックは、それならばと金を要求するが一度金を受け取る事を拒否していた事から認められず、しかも、アントーニオの命を奪おうとした罪により財産は没収となる。アントーニオはキリスト教徒としての慈悲を見せ、シャイロックの財産没収を免ずる事、財産の半分をシャイロックの娘ジェシカに与える事を求める。そして、本来死刑になるべきシャイロックは、刑を免除される代わりにキリスト教に改宗させられる事になる。
その後、ベルモントに戻ったポーシャは、バサーニオに裁判の真相をすべて告白し、そしてアントーニオの船も奇跡的に助かり、物語は大団円を迎える。
反響と批判
上演当初は、単なる喜劇としてしか演じられなかった本作であるが、あらすじを見てもわかる通り、基本的にユダヤ人に対する偏見と悪意が強く表現された作品である。
また、作品中の契約や法律に対する考えもキリスト教にとって有利な様にできており、あからさまに不公平となっている。
このことから、ユダヤ人の中には観劇中に隠れて涙を流した人もいるらしく、『シャイロックの悲劇』とも呼ばれた。
これは、当時のユダヤ人に対するキリスト教側からの偏見とユダヤ人に対する差別を知る必要がある。
シェイクスピアが活躍していた当時のユダヤ人と言うのは、国土を失って欧州各地に散らばって暮らしていた民族である。
キリスト教徒は信仰している宗教が違う事から、定住することもままならず、碌な仕事に就けない彼らができる仕事は、当時キリスト教から卑しい仕事とされ、忌避されていた金融業しかできなかった。
そのため、ユダヤ人の高利貸しとして描かれたこのシャイロックの姿は、一般的なユダヤ人にとってはごく当たり前の人物でしかなかった。
そんなユダヤ人に対して、当時の欧州のキリスト教徒は、金融の知識が足りなかった。キリストの教えとユダヤ教の教えと違ったなど、様々な理由はあるだろうが、概して違法な手段と非合法な金利で儲けている卑怯な連中としか思えなかったのだ。
つまり、当時のユダヤ人からすれば、普通に生きているはずの自分たちが謂れもない誹謗中傷を受けた末に、全財産を没収された末にキリスト教への改宗すら強要されたことに等しく、それを喜劇として大勢の観客に笑われることは、耐え難い屈辱であることは現代の人間であっても想像に難くない。
そのため、今でもこの作品に対するユダヤ人からの批判は大きく、今でもアメリカでは教科書の掲載はおろか、部隊演劇として演じられることすら避けられている。