主に1950年代頃まで使われていた古い言い回しである。
概要
主に、主人一家の身の回りの世話や接客、あるいは掃除・洗濯・炊事などといった作業を担っていた。
同じく女性使用人を示す言葉に家政婦やお手伝いさんなどがあるが、女中は奉公、つまり労務の提供と賃金のやり取りが約束された雇用契約(一種の職業)ではなく、どちらかと言えば封建制においての未婚若年女性に対する教育を兼ねた役務とする意味合いが強かったとされる。
明治維新の頃までは、主人一家の身の回りの世話や訪問客の接遇に当たる者が上女中、掃除や洗濯、炊事などの雑務(下働き)に従事する者が下女中と呼ばれて明確に区別されていたが、明治以後はこのような風習は薄れたと言われている。
このうち、上女中は武家、富農、商家などの子女(つまりお嬢様である)が行儀見習い(花嫁修業)を兼ねて従事することが多く、対して下女中は貧農やその他の家の末娘などが就くことが多かった。
当然、上女中たる者は身分が明確に保証されていることに加えて、ひと通りの礼儀作法を身に着けている必要があった。
江戸城や各地の大名屋敷における「大奥」においても同様の奥女中制度があり、こちらは上級身分の未婚子女の奉公先とされていた。
「女中」という言葉そのものは、使用人の雇用形態が多様化した明治以降も、慣例的にこの手の役務に就いていた女性全般を指す言葉の一つとして使われていたが、戦後になると家庭を職場とする者は「家政婦」「お手伝いさん」、旅館や料亭の場合は「仲居」などと呼ばれる事が多くなり、女中という言い回しは聞かれなくなった。
女中という言葉が消えた背景には、戦後に女性の権利の向上、つまり進学率や就職率の向上や「お手伝いさん」などという形で明確な雇用契約を結ぶ例が増えたことなどによって、実際に奉公的な待遇で働く女性そのものが大幅に減ったためであるという。