概要
曹操とは旧知の仲で、反董卓連合軍結成の際には曹操の推薦で盟主にもなった。
董卓亡き後は公孫瓉と河北の覇権を争い勝利。曹操と官渡で雌雄を決する事になる。
評価
日本の戦国武将・今川義元に似て、その業績に比べ非常に世間的評価が低い群雄である。
官渡の決戦における優柔不断な行動だけで全てを語られがちであるが、上記の様に軍師や将軍達を御しきれていた官渡以前は連戦連勝であった。官渡でも兵糧を奪われるまでは緒戦で文醜、顔良を討たれるという失策はあったものの「盾を構えていなければ砦の中を歩けない」と表されるほどに曹操軍を終始圧倒していたといわれる(実際、曹操も弱気になって荀彧や郭嘉に励まされている)。兵糧庫をバラすという許攸の寝返りさえなければそのまま勝利していても全く不思議はなかった。
また、内政面では魏どころか晋の時代になってさえ「袁家の治世が懐かしい」と懐かしむ民がいたと史書に残されており、非の付けどころのない優秀さであった。
あまり知られていないことではあるが、官渡後も袁家は変わらず強大な勢力を保っており勝利した曹操もうかつに手を出す事ができなかったようである。
曹操が中原を制することができたのは袁紹が予想外に早く亡くなり(官渡のわずか二年後に亡くなっている)、その後の後継者争いにつけこんだ事が大きい。この事は奇しくも曹操の後継者選びの際に引き合いに出されている。