概要
木曽の豪族、中原氏の血を引く。
兄に樋口兼光、妹に巴御前がおり、木曾義仲とは幼馴染であった。
木曾義仲を挙兵すると今井兼平もそれに従い、横田河原の戦いで城助職を破る。
寿永2年(1183年)、般若野の戦いで別動隊の大将を務め、平氏軍を撃破。倶利伽羅峠の戦い、篠原の戦いにも参加した。
7月には平氏を都から追放して義仲と共に入京。11月、後白河法皇と義仲が対立すると、義仲の命に従い、後白河法皇を幽閉することに成功した。
しかしその後、鎌倉から攻め上がった源義経・源範頼の軍に義仲軍は敗走。
兼平は義仲を逃がすために囮となるも、義仲が流れ矢に当たって討死。敵軍の歓声を聞いた兼平も、刀を喉に突き刺して自害した。享年33。
『平家物語』における最期の様子は、大軍を前に弱気になる義仲に対し、「兼平一騎を千騎の武者だと思ってくださいませ」と勇気づけ、義仲がせめて最期は共に自害しようと言うと、「殿はもうお疲れです。木曽義仲ともあろう者が郎党の手によって討たれたとあれば後世まで名が傷つくでしょう」と述べ、自ら囮となり敵の大軍に突撃にしたという。
妹の巴御前が有名すぎる一方で今井兼平は今ひとつ知名度が低いが、義仲が最も頼りにする家臣であった。