会津藩の15~17歳で構成された部隊。他の四神の名を冠した部隊もある。年齢の高いほうから玄武隊・青龍隊・朱雀隊・白虎隊となっている。さらに下の年齢の部隊もある。
編成は上士の子弟からなる士中隊(一番隊・二番))、中士の子弟の寄合隊(一番隊・二番隊)、下士の子弟の足軽隊(一番隊・二番隊)で編成された。
戊辰戦争では、寄合隊が慶応4年7月15日に鶴ヶ城を出陣して越後口に進軍し、新政府軍と戦闘を交え、8月21日に新政府軍により母成峠が突破され、督戦の為に出陣し、滝沢本陣まで進出した会津藩主松平容保の護衛として士中二番隊が出陣し、士中一番隊は鶴ヶ城の守備にあたった。
しかし、新政府軍の進撃は早く22日には日橋川に架かる十六橋も突破され、戸口が原などに辛うじて戦線を会津軍は張るも、兵力不足の為に士中二番隊もその戦線に投入されたが、隊長の日向内記が軍議の為に出て戻ってこないまま23日の戸口が原の戦いを迎え、会津軍は敗北するなか、士中二番隊も敗走して地下水路を抜け飯盛山に出たところで(会津若松城から煙が出ているのを見て落城したと勘違いしたとも、捕虜となる恥を受けない為にともいわれる)約20名が自刃した。ただし士中二番隊隊員全員が飯盛山にいたわけではなく、自刃したのはおよそ半数に過ぎない。
一方、鶴ヶ城の士中一番隊は23日より鶴ヶ城下に雪崩れ込んできた新政府軍と戦果を交えている。また士中一番隊は壊滅した士中二番隊の生き残りを収容して士中合同隊となった。
寄合隊は一番隊の殆どは城外で戦闘を続けたが、その他の一番隊士と二番隊は帰城して籠城戦に参加している。
23日の鶴ヶ城下での戦闘では戦線を破られ、籠城しようとしたものの攻め寄せる新政府軍に阻まれ愛宕山に押し込められる形となった士中一番隊士の一部は、己の無力さに自刃しようとしたところを、居合わせた家老田中土佐を介錯した武士がそれを見つけ、皆を平手打ちして落ち着かせると、「あなた方は上士のご子息である士中白虎隊の方々ではありませんか。それなのに殿が籠城しているというのに此処で死ぬのは不忠でしょう。私も主である土佐を介錯し、直ぐにもその後を追いたい気持ちですが、奥方様に主の最期をお伝えせねば不忠なのでまだ死ねないのです」という内容を述べて思いとどまらせ、彼等は後に入城する事が出来たという。少年達を導く大人が居るか居ないかの差がこの一番隊と飯盛山の二番隊の明暗を分けたと言えよう。
白虎隊は総数343名のうち、50名以上の戦死者を戊辰戦争で出した。