1840年~1868年7月6日
もと伊予松山藩中間で、出奔後は江戸で近藤勇の道場に入門。
近藤たちと共に上洛して新撰組に入隊。
槍の名手で数々の戦闘にはほとんどで活躍した。
鳥羽伏見の戦い以降、江戸に戻ってからの足取りは不明で、上野戦争での負傷が原因で死んだとも、大陸に渡って馬賊になったとも様々。
少々短気な性格で、喧嘩の勢いで切腹を行い、傷が浅かったため大事には至らなかったが、腹に傷跡が残り、酒で酔った時はよく自慢げに見せていたという。このことから「死損ね佐之助」とあだ名された。
新撰組の中では美男子の類といわれ、永倉新八とは仲がよく、愛妻家でもあった。