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劉秀の編集履歴

2021-08-28 22:09:46 バージョン

劉秀

りゅうしゅう

後漢王朝初代皇帝。光武帝と記される。中国史上屈指の名君。 あまりに嘘くさいので実在を疑う説さえあったリアルチート。 日本ではむしろできすぎるのであら捜しをされまくるため評価があまり高くない。 三国志の曹操が尊敬した人物としても知られている。

概要

劉秀とは中国後漢王朝における初代皇帝である。

王莽による簒奪後の新末後漢初の動乱期に中国を統一し、漢王朝の再興として後漢(本人は漢としか名乗っていないが、後世便宜的に後漢あるいは東漢と呼ばれる)王朝をたてた。廟号は世祖。

三国志劉備のように「漢王朝を復興する!」と主張した人物は多いが、本当に復興させることができたのは劉秀のみ。

日本での知名度は「『漢委奴国王』の金印を日本にくれた人」程度で高くないが、名君として中国での評価は高い。


人物

端的にまとめると


「乱世の中で滅んだ王朝を復興させたという歴史上珍しい快挙を成し遂げた人物」

「武将として優秀、個人戦にも優れ、学問に堪能、人間性が面白くて人望があり、政治家としても能力が高い」

「相思相愛の美少女幼馴染と結婚し、皇帝にまで出世した上に優れた部下に恵まれ、息子まで優秀」


と、歴史上実在の人物と言うより少年漫画の主人公かと突っ込みたくなる人である。


経歴

紀元前5年生

若い頃は温和で大人しく、多少引き籠りっぽい所もあったらしい。

紀元22年、兄の挙兵に同行する形で参戦。この際、ではなくに乗って軍に参加したという。

紀元23年、昆陽の戦い。作戦を立てて上の行動であるが、42万の敵軍に3千の兵で突撃し完勝。

同年、兄が主君に無実の罪で殺される。劉秀は黙ってこれに耐える。

同年後半、主君に地方に飛ばされる。この時には派手に負けており、飢えにまで苦しんだらしいが、翌24年には数十万の大軍を指揮するまでに勢力を拡大。

紀元25年、皇帝に即位。本人曰く「なりたくなかった」。

紀元36年に中国を統一する。


皇帝として

29年、学校を整備。

30年、反乱を起こされた前王朝時代には収穫の1/10だった税を1/30まで下げる。

31年、売人法制定。人身売買を禁止。

35年、奴婢と良民の刑法上の平等を宣言。

「天地之性、人為貴」(この世界においては、人であることが尊い)との発言が残る。

36年、優秀な人物を推挙するシステムを全国規模で構築。

39年、耕地面積と戸籍との全国調査を施行、国民皆兵制の撤廃。

40年、貨幣制度の整備。


このほか、何度か奴婢解放令を発布して奴隷を持つことを禁止


などなど。

後世の歴史家に言わせると「本人が優秀すぎて他の時代なら有名なはずの部下が全然目立たない」。


紀元56年病没。


その他

・部下と一緒に宴会で泥酔して騒いだり、

・出身地のおばちゃんを集めて宴会をやったり(注:この時すでに皇帝である)、

・部下との会議中に春絵を盗み見ていて真面目な部下に怒られたり、

・連日の夜遊びに激怒した部下(奥さんと言う説もある。ちなみにこれも皇帝になってからの話)に締め出されたり、

・聖王聖王と連呼されるので「うるさい。聖王って呼ぶの禁止」と宣言したり

と、よく言えば人間味あふれる逸話が多い。


かと思うと無名の頃に悪政の被害を受けていた逃亡者を匿ったり、

10万人以上の降伏した敵兵を前に鎧もつけずに巡回して見せたり、

皇帝即位後、不正をした文官は躊躇せずに処罰したりと

毅然とした逸話も多い。


また部下も含めて妙に文学的素養が高く、本人の「柔よく剛を制す」や部下の「烏合の衆」など、中国に詳しくない人でも口にするような言葉が劉秀の時代に頻発されている。


関連イラスト

8月5日は後漢建国の日後漢王朝年表


関連タグ

後漢

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