生涯
元亀3年(1572年)に出生。兄弟には児玉元兼や児玉景唯、児玉元次が、姉妹に益田景祥の妻がいる他、毛利輝元の側室の一人である於松(羽根元泰の娘)とは親戚。
「古老物語」によると、幼少期が自宅門前で遊んでいたところ、美少女故に通りがかった輝元 (天文22年1月22日(1553年2月4日)生まれ)の目に留まり、その後、輝元はしばしば元良の広島時代の自宅を訪問するようになる。輝元のこの行動を快く思わない元良は、天正12年(1584年)に13歳の周姫を杉元宣に嫁がせた。なお、翌天正13年(1585年)には父の元良が死去する。
一方で同じく天正13年(1585年)に輝元と正室・南の大方は養子として毛利秀元を迎えた輝元であったが、二の丸殿を諦めることなく佐世元嘉らに命令し、強奪して側室とした。
これに立腹した元宣は、天正17年(1589年)の大坂の豊臣秀吉への直訴を計画するが、事の重大さに気付いた小早川隆景により野上庄沖にある大島の船隠で殺害された。
不本意ながらも輝元の側室となった周姫は、広島城二の丸に住み「二の丸殿」として輝元の寵愛を受ける。なお、二の丸殿が未完成の広島城に早々に居住することとなったのは、輝元正室である南の大方の嫉妬によるものとされる。
文禄4年10月18日(1595年11月19日)に毛利秀就、慶長4年(1599年)に竹姫、慶長7年9月3日(1602年10月17日)に就隆を出産。通説では秀就を広島城で生んだとされるが、南の方を恐れていたことから、懐妊後に密かに長門国の小野村(現・山口県宇部市)の財満就久の屋敷に匿われ、密かに出産したとの説もある(詳細は毛利秀就を参照)[4]。
毛利家の転封により広島城に戻ることができなくなると、萩城に入らずに周防国山口の覚皇寺に移った。慶長9年(1604年)8月1日に32歳で病死し、山口古熊の西方寺(現・山口市の善生寺)に葬られた。萩に入ることができなかったのは、やはり南の大方が許さなかったと言われている。
明治になって、山口市の香山公園(瑠璃光寺)にある毛利家菩提所の裏に墓が移された。