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MP4/4の編集履歴2024/08/15 07:39:17 版
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MP4/4

えむぴーふぉーふぉー

MP4/4は、イギリスのレーシングチーム「マクラーレン」と日本の「ホンダ」がタッグを組んだ1988年のF1マシン

概要

マクラーレンMP4/4は、1988年のF1に投入されたF1マシン。マクラーレンは、1987年まで使われていたポルシェのエンジンから、ホンダのエンジンに切り替え、ドライバーもアラン・プロストロータスから移籍してきたアイルトン・セナの2名のドライバーと共に1987年に逃したドライバーズチャンピオンとコンストラクターズチャンピオンを奪還するべく、ターボエンジン車最後のシーズンとなる1988年のF1に挑むことになった。

驚異的な成績

MP4/4は今シーズン、とんでもない成績を残した。それは、16戦15勝(勝率937)ポールポジション15回、ファステストラップ10回、ワンツーフィニッシュ10回という成績を残し、全てのレースでどちらかが完走を果たし、唯一勝利を逃したイタリアGP以外全てでMP4/4はF1を完全に支配した。

コンストラクターズポイントは199ポイント。65ポイント獲得した2位フェラーリの3倍以上の差をつけ

ドライバーズランキングもセナとプロストの一騎打ちであった。7勝したプロストと8勝したセナのドライバーズチャンピオン争いは獲得数ポイントではプロストが有利だったものの、当時の有効ポイント制によりベスト11戦のリザルトが有効とされドライバーズチャンピオンはアイルトン・セナが獲得した。

でもなんでこんなに勝てたの?

MP4/4が16戦15勝という圧倒的成績を叩き出した理由は当時のレギュレーションにベストマッチしたホンダエンジンとマクラーレンチームに最高のデザイナーとドライバーが揃ったこと。

この年を最後にターボエンジン車は使えなくなってしまい、そして燃料搭載量が195Lから150Lになるなど、ターボエンジン車に求められる燃費がより厳しくなってしまう。しかしホンダはこの条件を逆手にとり、低燃費パフォーマンス技術を使い、他のメーカーエンジンよりも有利なエンジンを作ることができた。

また、前年から加入していたゴードン・マーレ―の手による全高が低く低重心で、ドラッグが少ない新型車のデザインは低重心なホンダ製V6エンジンと元々相性がよかったうえマーレ―からの希望でエンジン搭載位置をさらに下げるための改良を施したことで優れた運動性能を発揮。

 それに円熟期に入った経験豊かなプロストと新進気鋭だが一発の速さが光る天才ドライバーのセナという最強の2人が乗ることで16戦15勝という圧倒的な成績をたたき出したのだ。

 

そしてここからマクラーレン・ホンダの黄金時代が始まって行くのとともに、他から抜きんでたパフォーマンスを持つことでチーム内にしかライバルが居ない状況となったことをきっかけとしてセナとプロストの関係に溝が生まれていくことになったのだが、その優位性も長くは続かず前述の溝の悪化を切っ掛けとしたプロストの移籍やレギュレーション変更による大きく重いNAエンジンへの移行による重量バランス悪化、天才デザイナーのゴードン・マーレ―の市販車チームへの転籍による車体デザインの保守的性格の強まりなどで徐々にその優位性は失われていくことになった。

余談

本車が唯一優勝を逃したイタリアグランプリもプロスト車はエンジントラブルでリタイアしていたものの残るセナ車が首位を走りゴール目前のところまで来ていた。しかし残り2周まできたところで同レースをウイリアムズでスポット参戦していたジャン=ルイ・シュレッサーの車と接触リタイアしてしまったため全戦優勝はならなかった。

 なお、シャレッサーの叔父のジョー・シュレッサーがホンダF1第一期でRA302をドライブして事故死しているため、これと因縁付けて語られることもしばしあるがこの事故自体は2人ドライバのミスと逃げ場のないコース状況が重なったことによって偶然起こってしまったレーシングアクシデントであり双方とも意図的に事故を起こそうとしたものではない。実際セナもシュレッサーの状況に理解を示しており、二人の関係は以後も良好で、モナコでしばし会う仲だったという。

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