概要
マクラーレン・MP4/4は、1988年シーズンのF1に投入されたF1マシン。
新たにゴードン・マレーが提唱するローライズコンセプトを採用され、太く大柄だった前年型のMP4/3とは違い、細く低くコンパクトなデザインに移行した。
エンジンに関しても変更点があり、前年まで使われていたTAG(ポルシェ)エンジンから、F1最強と言われていたホンダエンジンにスイッチした。
ドライバーもアラン・プロストとロータスから移籍してきたアイルトン・セナのセナ・プロコンビとともに、前年逃したドライバーズチャンピオンとコンストラクターズチャンピオンを奪還するべく、ターボエンジン最終年となる1988年シーズンに挑むことになった。
驚異的な成績
この年、MP4/4はとてつもない成績を残した。
シーズン16戦15勝(93.75%)、ポールポジション15回、ファステストラップ10回、ワンツーフィニッシュ10回という成績を残し、(イタリアGPを除く)全てのレースでどちらかが優勝を果たし、この年のF1を完全に席巻した。
ちなみに、この年のマクラーレンが獲得したポイントは199ポイント。65ポイントを獲得した2位・フェラーリの実に3倍以上の差をつけており、チャンピオン争いもセナとプロストによるチームメイト同士での一騎打ちであった。7勝したプロストと8勝したセナのドライバーズチャンピオン争いでは獲得数ポイントではプロストが有利だったものの、当時のF1で採用されていた有効ポイント制によってベスト11戦のリザルトが有効とされ、ドライバーズチャンピオンはセナが獲得した。
この年のマクラーレンがマークした93.75%という勝率は、35年後の2023年にレッドブルが95.4%(22戦中21勝)という勝率で更新するまで、年間最高勝率の記録を保ち続けていた。
ちなみに、レッドブルが搭載しているPU(パワーユニット)のバッジ名はRBPT(レッドブル・パワートレイン)だが、実際は正真正銘のホンダPUである。
なぜこんなに勝てたのか?
MP4/4が16戦15勝という圧倒的な成績を叩き出した最大の理由、それは当時のレギュレーションにマッチしたホンダエンジンと、当時のマクラーレンには最高のデザイナーとドライバーが揃っていたということが大きい。
この年を最後にターボエンジンは使用禁止になる事が決まっており、そして燃料搭載量が195Lから150Lになるなど、ターボエンジン車に求められる燃費がより厳しくなってしまう。
ホンダはこの悪条件を逆手にとり、ホンダが誇る低燃費に関する技術を使い、他のメーカーより有利なエンジンを作ることができた。これは、FIAとのレギュレーションについて意見を求められた際ホンダから「もっと燃費規制を厳しくすべき」という意見が出されこれが取り入れられたということも大きかった。(ターボ勢にとって燃料が潤沢に使えないのは致命的でNA勢との均衡化の観点からあっさり意見は通ることになったが低燃費技術でもホンダがトップであったことから結果としてトップエンジンの座は揺るがなかった)
また、前々年末にブラバムからマクラーレンに加入していたゴードン・マレーの手による、全高が低く低重心でドラッグが少ないデザインは低重心なホンダ製V6ターボエンジンとは相性が良かった上、マレーからの希望でエンジンの搭載位置をさらに下げるための改良(クラッチの小型化や入力軸位置の低い3軸式ミッションの採用など)を施したことで優れた運動性を発揮した。
そして、前年までに2度のワールドチャンピオンを獲得して既に円熟期に入っていたプロストと、一発の速さが光る天才ドライバーのセナという2人の最強ドライバーを擁していた事で、シーズン16戦15勝という圧倒的な成績を残す事が出来たのだ。
このマシンが余りにも抜きんでたパフォーマンスを発揮したため、チーム内にしかライバルが居ない状況となった。
しかし、この事がきっかけでセナとプロストの関係に溝が生まれてしまい、さらに前述の関係悪化を切っ掛けとするプロストのフェラーリ移籍や前述のターボエンジンの禁止で大きく重い自然吸気(NA)エンジンへの移行による重量バランスの悪化、さらには天才デザイナーであるマレーの市販車部門への転籍による車体デザインの保守的な性格の強まりなどで、徐々にその優位性は失われていくことになる。
余談
シーズン唯一の敗戦
この年のマクラーレンが唯一優勝を逃したイタリアGPも、プロストはエンジントラブルでリタイアしていたものの、セナが首位を走っており、チェッカーフラッグ寸前の所まで来ていた。
しかし残り2周まで来た所で、ナイジェル・マンセルの欠場でこのレースにウイリアムズからスポット参戦していたジャン=ルイ・シュレッサーと接触・リタイアしてしまったため全戦優勝はならなかった。(最終的に優勝したのは地元フェラーリのゲルハルト・ベルガー)
なお、シュレッサーの叔父のジョー・シュレッサーがホンダF1第一期でRA302をドライブして事故死しているため、これと因縁付けて語られることもしばしあるが、この事故自体が2人のドライバーのミスと逃げ場のないコース状況が重なったことによって偶然起こってしまったレーシングアクシデントであり、双方とも意図的に事故を起こそうとしたものではない。
実際、セナもシュレッサーの状況に理解を示しており、二人の関係は以後も良好で、モナコでしばし会う仲だったという。
ホンダエンジン
マクラーレンがこれだけの好成績を挙げた理由として、よくホンダエンジンの性能が高かった事が挙げられるが、(前述のように)それだけで勝ち取ることが出来る程、F1は決して甘いものではない。
その証拠として、マクラーレンにもホンダエンジンが供給される前年の1987年からホンダエンジンを搭載していたロータスは、前述のホンダエンジンを搭載している事や前年王者のネルソン・ピケが加入したことで好成績を期待されたものの、実際はこの年のマシン・100Tのシャシー性能の低さ(リベットを多用する構造で剛性が劣ってシャシーがホンダエンジンのパワーを受け止めきれないうえ、エンジンをミッションの軸に合わせて嵩上げしたために重心が高くなってしまった)に苦しめられ、前年王者であるピケの力をもってしても3位に入るのがやっとであり、コンストラクターズランキングでも、(ターボと比べると)パワーでは劣るが信頼性の高いフォード・コスワースの自然吸気(NA)エンジンを搭載していたベネトン(3位・39ポイント)に大差で敗れて4位(23ポイント)に終わるなど、散々な結果に終わっている。
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